言葉集めの難しさ
「言葉は民族の精神、文字は民族の命だ―――」
とある映画の副題である。
私は朝鮮語を学び始めてもう3,4年程になった。
学び始めた当初は全く基礎がなかったためハングルから始め、参考書を買い、とにかく人に聞いて教えてもらった記憶がある。なつかしい。
今思えばコンプレックスを埋めるため必死に勉強していたのかもしれない。
それでも未だ読み書きに苦戦するレベルで、やはり言葉という”文化”の習得には相当の時間をかけないとだめなんだなあと日々思う。なおさらその”文化”を継承することの難しさよ、とも思う。
言語学習において、何をきっかけとして学ぶか、というのは非常に重要だ。
娯楽のため、仕事のため、アイデンティティのため…
それは”言葉”から何を感じどう学ぶかというところに深く関わってくる。
朝鮮・韓国語の言語学習のソース(資料)として我々がよく使用するのは所謂大韓民国で使われているソウル語を扱うものであろう。
最近はKPOPの影響もあり、書店に行けば所謂”韓国語(ソウル語)”学習材がずらっと並んでいるのが当たり前になってきた。ここ数年で本当にそういう傾向が強くなった。
言語としての人気など露程もなかった朝鮮・韓国語が昨今の韓流の流行に伴い今や英語に負けず劣らないほどの需要を伸ばしている。昔なら考えられないことであろう。
その勢いは市場での競争を加速させ、もはや英語教材と同じくらい多様な学習材が生み出されてきている。書店によっては”韓国語コーナー”なんて一角があるくらいだ。
そうした流れの中で、ただ”韓国語”という言葉だけが一人歩きし、もはや統一朝鮮の意味として一応はあてがわれた”朝鮮・韓国語”という言葉すら消えかけ、”朝鮮語”という言葉は消えてしまったのではないか…?
と、並んだ本のタイトルを眺めながらしばしばそう思ってしまう。
そのうち「チョーセンゴってなに?」なんて聞かれる時代がくるのだろうか。これも”分断”の一つだろうか…
畢竟、(在日朝鮮人は)一体”どちら”の言葉を学べばよいのか。
大韓民国か、共和国か。我々はなんと政治的な民族なのだろう。
しかし本質はそこではない、と私は考える。
結局のところ必要なのは自身の言葉をどう学び、どう他者に教授していくのかを考えることであろう。
言葉を学ぶということは自らのアイデンティティをどう定義するかを考える過程でもある。母国語だけに限らず、英語を学ぶにしろ中国語を学ぶにしろ、自分及び他民族の文化(=民族の”感覚”や”思考”)との”接触”を伴うからだ。
自らのアイデンティティに課されている分断に対して、どう対峙していくのか。己、そして他者にとってどうありたいのか。
そこに己ー他者までを通した一本の軸があれば、テキスト化された「朝鮮・韓国語」でなく自ずと”自分の言葉”としての色がのり、発話されることであろう。
言語は己を表現し、他者へ伝えるものである。
在日朝鮮人(朝鮮学校出身者)の一定数は、本場では通じないから…というように”使える言葉”でないことにコンプレックスを感じている。
昨今の行き過ぎた実利主義的価値観の影響は在日朝鮮人の言語的(=アイデンティティ的)コンプレックスに深く関係しているようだ。
これを克服しない限り、”私たちの言葉”というのは”使える言葉”に絡めとられ無くなっていく一方であろう。
資本主義は我々の言葉(=民族性)すら蝕んでいくのか。
とりあえず思考の整理はできたのでここまで。
たくさん本を読まねば。
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