卒業前に留年生が未練を聞き届けた昼の話
この大学とも、あと少しでおさらばだ。
卒業を目前に控えても、私のなかに惜別の情はとんと湧いてこなかった。4年間──そして、おまけの1年間。長く居すぎた、と思う。居たくて居るわけじゃない、と己にどれだけ言い聞かせたことだろう。
「残りの学生生活を楽しんでください」と内定先の人事から言われた憶えがあるけれど、やりたいことなんて特になかった。
──「学生最後だし帰省しようかなって」
──「卒業旅行どこにするー?」
──「やっぱ卒業式は振袖でしょ〜!」
そんな会話を学内のいたるところで耳にはすれど、どれもこれも私には無縁だ。帰省はおろか旅行も面倒だし、式だって就活と同じくスーツでいいやと割り切っていたからね。
それに、やりたいことは無くとも、やるべきことはある。
1年生の頃からずっと続けているアルバイト。
加えて、内定先の入社前課題。
それから……図書館で借りっぱなしだった本の返却とか、さ。
***
「……ウソでしょ?」
大学図書館のエントランス前で漏れ出たつぶやきは、ひとけのない構内に虚しく響いた。
自動ドアには「休館」のプレートがぶら下がっていた。というか、そもそもショルダーバッグに入れていたはずの返却図書がなかった。家に置き忘れたのか、はたまたどこかで落としたのか。いずれにせよ、この「登校」はまったくの無駄足だったというわけだ。
溜息を吐き出すと同時に、ぽつん、と頭上から音が降ってきた。見上げれば、ガラス製の庇に水滴が点々とついている。さっきまでの快晴はどこへやら、空はすっかり灰色にかげっていて──瞬く間にざわめきのような雨音が周囲を満たした。
「ウソでしょ……?」
傘なんて持ってきてない。不幸中の幸いだったのは、図書館の横にカフェテリアが併設されていることだ。足早に中へと駆け込んだところで、ふと気付いたことが一つ。
……カフェテリアの扉、さっき閉じてなかったっけ?
春休み真っ只中の、それも立地の悪いこの支部キャンパスに足を運ぶ学生なんて、そうそういやしない。こんな日にやって来たのは私くらいのものだと思っていたけれど、どうやら先客がいるらしい。誰だろうと訝しみつつ、辺りをぐるりと眺めてみたところで、どきりとした。
真っ黒な影──いや、違う。
よくよく見れば、なんてことはなかった。
隅っこのベンチで、タブレットを黙々といじっている男の子がひとり。お坊ちゃんカットに黒メガネ、身に纏うのはこれまた黒のPコートとブラックデニム。オールブラックコーデの装いは、その地味さに反して遠目にも目立った。
いっこ下の後輩・ワタヌキくんだ。
──驚かせてくれちゃってさぁ。
理不尽な怒りとともに、悪戯心がむくりと頭をもたげた。
ワタヌキくんがこちらに気付いた様子はない。
それを良いことに、私は足音を立てないよう背後から近づいて──
「おひさしぶり!」
ぽん、と勢いよく彼の肩に手をのせる。
一拍遅れて、くるんと彼の首がこちらに向いた。
「ミツキさん……驚かさないでくださいよ」
いつもの淡々とした調子で、ワタヌキくんは苦笑した。
あまりにも薄すぎる反応に、むしろこっちが驚きだった。
しかし、何よりも私を驚かせたのは、彼が手にしたタブレットの「中身」だ。
ブログと思しきページレイアウト。
見覚えのあるヘッダーアイコンは、私たちの大学の校章。
そして、手書き風のフォントで綴られたタイトルにいわく──
“有言実行! W大学合格への受験勉強法”
「なに、ウチに通い直す気なの?」
「いや、えっと……」
「そういや院に進学するんだっけ? じゃああながち間違いじゃないね」
「大間違いですけど……」
もごもごと口ごもるワタヌキくんを横目に、私は隣へと腰を下ろした。
***
訊けば、どうやらワタヌキくんも図書館に本を返しに来たということらしかった。
「卒論の参考文献、借りっぱなしだったんで」
「あー、私とおんなじじゃん」
「ミツキさん、卒論は去年書いたって言ってませんでした……?」
「そうそう、だから一年間ずっと借りっぱだったの」
「ズボラすぎませんか」
「いや〜あっという間だったなぁ、一年間」
苦笑いでお茶を濁す私に、ワタヌキくんは「ホントですね」と溜息をついて、つづけた。
「ミツキさんは……大学生活に未練はないですか?」
「全っ然」
ほとんど反射的に、私はそう口にしていた。
「やりたいことも──やりたくないことも、全部やったからね」
鷹揚に笑ってみせて、私は問い返した。
「あんたはどうなの?」
「未練ばっかですよ」
「え、マジで? 何に対して?」
「もっと勉強しとけばよかったな、とか……いろいろです」
「あんたがそれ言うんかい……」
成績評価に関しては、いちばん上のA+がデフォルトのワタヌキくん。
彼が3年生の時だったか、なにかの講義で一度だけ「A」を取ったことがあったけれど、その時の落ちこみようといったら凄まじかった。ただでさえ暗い顔をかげらせて、負のオーラを全身から漂わせていたものだ。そんな彼が「勉強しとけばよかった」なんてさ、私なんかもう立つ瀬がないじゃん。
ひそかに不貞腐れる私をよそに、ワタヌキくんはタブレットを差し出して言った。
「これも、心残りのひとつなんです」
・・
彼の指先が、すっ、とタブレットの隅に向けられる。
そこにあるのは、ブログ管理人のプロフィールだ。ウサギの顔のイラストアイコン、それに「三月うさみみ 201X年W大学入学」の紹介文。
「このブロガーさんに、会ってみたかったんです」
どこか照れくさそうに、彼はこめかみをぽりぽりと掻いた。
「俺の浪人時代の、心の支えでしたから」
「……まぁ卒業したってさ、いつか巡り会えたりするんじゃない?」
「いえ……もう無理なんですよ」
そう言って、ワタヌキくんはプロフィール欄のTwitterアイコンをとんと叩いた。表示されたアカウントのタイムラインには、最上部にツイートが固定されている。投稿日付はちょうど、去年の今頃だ。
三月うさみみの母です。
突然のご報告になりますが、去る2月、三月うさみみは不慮の事故により急逝いたしました。
生前は沢山の方々に応援いただき、本人もとても幸せだったと思います。
本人に代わり、感謝申し上げます。今まで本当に有難うございました。
「もう、故人になってしまいましたから」
ぽつりと呟いた横顔は、ひどく儚げで、なんだか今にも消えてしまいそうで。
伝えるべきか、と迷いはしたけれど、それも一瞬のことだった。
思えば、ワタヌキくんにはとてもお世話になった。その彼が「心残り」というならば、私は応えるべきなのだろう。それはきっと、取るに足らない学生生活を送ってきた私の義務であり、同時に贖罪でもあった。
「──それね、私なんだ」
「……はい?」
ワタヌキくんの目が、訝しげに細められる。
それはまあ、そうだろう。いたって自然な反応だとも思う。
でもね、心苦しいけれど本当のことなんだ。
「私がね、『三月うさみみ』だったんだよ」
忘れもしない。これから先も忘れようとしては、折にふれて思い出してしまうのだろう。
「三月うさみみ」アカウントおよび受験ブログは、かつて私が1年次の春に立ち上げたものだ。
そして去年──4年次の春に、終わらせた。
他ならぬ、私の手で。
***
幼い頃から、教師になりたかった。
とはいえ、確固たる熱意があったわけじゃない。
同級生と比べて少しばかり成績が良くて、勉強を教えてとせがまれる機会がそれなりにあって、私自身も人に何かを教えるのが楽しくて仕方なかった。ただ、それだけのシンプルな理由だった。
漠然としているな、とは我ながら感じていた。だから、大学進学にあたっては、自分のなかの「熱意」を補強しようと思った。
第一志望校は、都内でも有数の難関私大。
教育学部には落ちたけれど、文学部には受かったから、そこへ進んだわけ。
教職課程は他学部でも履修できるって知ってたから、それ自体は問題なかったんだよね。
そうして私は、入学前に受験ブログを立ち上げた。
教師を目指しておきながら、高校時代の私は勉強をサボりがちで、成績は下から数えたほうが早いくらいだった。それでも文系科目はそこそこできるほうだったから、高3の一年間はそれらの成績を伸ばすのに全力を捧げたんだ。他の大学には目もくれず、第一志望校の分析ばかりしていた。その甲斐あってか、私はどうにか土壇場で合格を勝ち取ることができたのだった。
“選択と集中”
“最高効率&最短経路”
“有言実行”
実家の学習机に貼っていた三箇条は、そのまま受験ブログのお題目になった。
最初は本当に、軽い気持ちで始めたものだった。過疎っても別にいいから、書きたいことをどんどん書こうと気楽に構えていたんだよね。でも、予想は大きく裏切られることになった。なんの不思議か、想像以上に私のブログはアクセスを稼いでたんだよ。受験カテゴリのブログランキングをどんどん駆け上がっていくさまは、それはもう痛快だったよね。
そんな調子だったから、ブログ中心の生活へとシフトしていくのは当然のなりゆきだった。
家庭教師のアルバイトを春に始め、秋には塾講師と掛け持ちするようになった。
そこで得た諸々の知識を、私は余すことなくブログに還元していった。
そうすることで、バイト業務の精度も目に見えて向上していったんだ。
正のサイクルがうまく回っていた。
順風満帆と言えた。
本業たる勉学を除いては、ね。
1年次の取得単位数は、留年すれすれだった。
それでも私は、特に気にも留めていなかった。
むしろ、ブログに掲げた理念を体現できたような気すらして、誇らしく思っていた。
2年次からは、前にもまして講義を欠席するようになった。
教育学部じゃないから教職は単位に算入されないけれど、私にとっては学部の必修科目よりもよっぽど大事だった。そんなポリシーのおかげで、1年次の必修をいくつか落としちゃったんだ。そうそう、第二外国語に選んだドイツ語とかね。そもそも出席日数が足りなくて、再履になっちゃって。
1年生のワタヌキくんと顔を合わせたのは、その再履の講義でのことだった。
第二外国語の必修講義はそもそもが新入生向けのものだから、必然、再履の2年生も彼らと一緒に受講することになる。ちなみに、クラス内の2年生は私だけ。最初の方は気にならなかったけれど、一ヶ月もすれば新入生同士でつるみ始めるわけで──しかも、その頃にもなれば1年生だって「再履の上級生がいる」という事実にだいたいは勘づく。
講義中に回覧板みたいな出欠表を生徒間で回すのだけれど、そこに名前と学籍番号を書かなくちゃダメなんだ。私ひとりだけ学籍番号の形式が違うからね、それは嫌でもバレてしまうってわけ。
そんなわけで、数ヶ月も経った頃には「仲良しグループと余り者」の構図がすっかり出来上がっていて、私はめでたくぼっちになっていた。そして、私の隣によく座るのが、もうひとりのぼっち──ワタヌキくんだった。
彼に初めて声をかけられたときのことは、よく憶えている。
講義中に、小声で「起きてください」って揺すられたんだ。
そのとき私はバイト疲れで爆睡していて、教科書はとりあえず開いているだけの状態だった。寝ぼけ眼をこすってみれば、前の席のひとが音読をしていて、ひどく焦った。順番から考えるに、次は私が当てられる番だった。
口元のヨダレを焦ってぬぐう上級生を見かねてか、またもやワタヌキくんがささやく──「このページの、ここです」。誘われるままに慌ててページをめくり、その場はどうにか事なきを得たのだった。
正直、顔から火が出るほど恥ずかしかった。でも、同時に吹っ切れた感じもあった。もはや先輩の威厳なんて無いも同然だったし、ならば素直に頼ってしまおうと思ったのだ。講義が終わり、そそくさと教室から出ていこうとするワタヌキくんをつかまえて、私は言った。
「さっきはありがとね!」
「いえ……もう居眠りしないでくださいね」
「うん! でね、今の講義のノートさ、コピーさせてくれない……?」
「えっと……」
「露骨にイヤそうな顔するじゃん……」
「いえ、そうじゃなくて。ノートをコピーしても、今回のは講義聞いてないと何が何だか分からないと思うんで……」
だからですね、とひとつ咳払いをして、ワタヌキくんはつづけた。
「もし時間があれば……俺の復習も兼ねて、今日の講義内容をお伝えしたいと思うんですが」
「おっ、新手のナンパかな?」
「もういいです」
「すみません冗談です! 教えて下さいワタヌキ先生!!」
実際のところ、ワタヌキくんを頼って正解だったと思う。彼の「講義」は簡潔で分かりやすかった。なんならもう教授代理で講義をやればいいんじゃないかな、そう思える程度には。
「講義」を終えた後で、そうした諸々の所感を伝えると、ワタヌキくんは「ホントですか」と表情を綻ばせた。
「嬉しいです! 俺、将来は教授になりたくて──」
弾んだ声音。そして屈託のない笑み。
いずれも、普段の彼からは想像できないくらいに明るくて、まぶしかった。
あぁ、このひと、こんなふうに笑えるんだな。
「……どうしたんですか、先輩」
「いやぁ……若者っていいなぁって思いまして……」
「いやいや、俺たぶん先輩とタメですよ……?」
「え、そうなの?」
「俺は一浪してますから……先輩が現役入学なら、そういうことになるかと」
「まぁ、いちおう現役だけど」
「やっぱり。じゃあ先輩も俺と同じく『若者』ですよね」
なるほどね、と思わず私は吹き出してしまった。
ならば、こちらも所信表明をするべきなのだろう。
教授志望のワタヌキくんにならって、ね。
「あのさ、私もね。じつは教師になりたくて──」
それからというもの、ワタヌキくんとは会えばよく話すようになった。
お互い選択授業がけっこう被っていることが分かって、講義を一緒に受けることも多くなった。
名目上は「互いの単位取得のために協力し合う」ということになっていたけれど、私が果たしてワタヌキくんの力になれていたのかどうか、まるで自信はない。一方で、私からすればワタヌキくんのおかげで単位が取れていたようなものだった。欠席したときは彼に「講義」をせがみ、遅刻したときは「補講」を頼み、きちんと出席したときも暇さえあれば「復習」をお願いしたものだ。
ワタヌキくんの厚意に甘えきっていた。
それ以上に自分を甘やかしていた。
成績優秀な彼のそばにいることで、自分までもが凄い人間なんだと勘違いしていた。
3年次には就活が始まり、私は早々と大手予備校への就職が内定したこともあって──なおのこと、学生生活というものに対して楽観的になっていた。あとはもうギリギリ単位が取れさえすればよくて、ひいては卒業要件を最低限満たせればいいんだって。
でも、私は大事なことを忘れていた。
人間、いつだって力を十分に発揮できるわけじゃないのだ。
勝つ人間はそのことをちゃんと分かっていて、だからこそ安定的に八割の力を出せるようにする。重要なのは、十割を目指すからこそ八割の力になるってことで──最初から「最低限」を目標にしてしまえば、そこにすら届かないものだ。
だから、目標は高く持ちましょう──そんなことを、ブログ立ち上げ当時の記事で書いた記憶がある。
受験勉強で得たはずの、ささやかな人生訓。
それを忘却したツケは、4年次の春にやってきた。
三月に入ってすぐのことだった。
そういえば成績発表されてるんだっけ、と思い出して学部のポータルサイトを見に行ったんだ。
学年末成績じたいは二月の下旬にもう発表されていたのだけれど、ちょうどその頃はいろいろな所用が重なって慌ただしく、ブログはおろかTwitterさえもろくに触れていない状態だった。
成績発表のページを開き、ざっくりと目を通す。
そうして最初に目に飛び込んできたのは、赤太文字の文言だ。
ページの最下部には、こうあった。
進級判定──「留年」。
「……ウソでしょ」
自分でも驚くくらいに弱々しいつぶやきが漏れた。
単位が、ちょうど一コマぶん足りない。いくら数え直したところで、結果は同じ。
整然と羅列された各科目の成績欄には、三個の「F」──不可の表記が並んでいる。
そのうち一つは私が所属する専攻の必修科目で、おまけに後期限定で開講されるものだった。
「ウソでしょ……!?」
最低でも、もう一年は大学に在籍する必要がある。当然ながら、内定も取消だ。
予備校に就職することは、ブログやTwitterでたびたび報告してきた。
新社会人おめでとう、なんて気の早いお祝いの言葉も沢山もらっていた。
“選択と集中”
“最高効率&最短経路”
“有言実行”
脳裏に浮かぶのは、さんざん謳いつくしたキャッチフレーズ。
かくあろうとして、できたつもりになっていた。
それが、これだ──このざま、だ。
死ねばいいのに、と思った。
死ななくちゃ、と決意した。
こんな「私」は、この世にいて許される私じゃない。
そうして私は、熱に浮かされたかのごとく、衝動的にTwitterへと書き込んでいた。
『三月うさみみの母です。突然のご報告になりますが』──。
Twitterはもちろんのこと、ブログ管理ページもオートコンプリートを削除した。どちらも自動生成したパスワードだったから、もはや自分でも思い出しようがない。手持ちのスマホとPCに紐付いた情報をあらかた消し去った頃には、すっかり日が暮れていた。
結果として、私の付いた嘘はバレなかったし、身元が割れることもなかった。「三月うさみみ」アカウントはリアル用のアカウントと完全に切り離していたし、ブログを書いていることは周囲の誰にも一度たりとて漏らしたことはなかった。
今日、ワタヌキくんに白状するまではね。
それが私の──「三月うさみみ」であった頃の顛末だった。
かくして私は、再び4年次の春を迎えた。
たった数コマのために大学に通い、二度目の就活へ身を投じたんだ。
望みもしなかった延長戦。欲しくもなかったモラトリアム。そんな「おまけ」の一年間。
でも、決して悪いことばかりじゃなかったよ。
就活にたっぷり時間をかけたおかげか、去年よりもランクの高い予備校に講師採用されたからね。空いた時間で去年にも増してバイトに精を出したかいあって、貯金をそれなりに増やすこともできたし。あとさ、大学でワタヌキくんと「講義」抜きにお喋りをする機会も多くなったし……なんてね。
***
「……話してくれて、ありがとうございます」
私が話し終えた後で、ワタヌキくんはこちらに向き直り、深々と一礼した。おまけに「会えて光栄です」なんて付け加えてくるものだから、こちらとしては気恥ずかしくて仕方なかった。ちょっとやめてよ、とひとしきり笑ったところで、私は尋ねた。
「ともあれ、もう心残りはないってわけね」
「……実を言うとですね。もうひとつだけ、白状していいですか」
「欲張りかよ……いいよ、この際だから言ってみなよ」
数秒の間があって、ワタヌキくんは静かに口を開いた。
「──ミツキさんのことが、好きでした」
「過去形なんだね?」
「いや、今でも好きなんですけど」
「ありがと、やさしいね」
さっきの今だ。愛想を尽かされたに違いない。でも、私の自業自得だから仕方ないよね。
今にして、思う。
私もこんなふうに、勇気を出してみればよかったのかな。きみと付き合う資格なんてないと最初から諦めずに、大学で会えるからそれでいいやと満足せずに──きみにちゃんと伝えるべきだったのかな。
天を仰ぐ。あれほどまでに降っていた雨はいつの間にか止み、カフェテリアの天井からは幾筋もの光が差し込んでいた。
「──そろそろ、いくね」
ベンチから腰を上げる。じゃあね、と手を振ろうとしたところで、「ミツキさん」とワタヌキくんが言った。
「よかったら……いつかまた、大学に遊びに来てください。俺は院にいますし、そこらへんぶらぶらしてると思うので……ゆくゆくはここで教授になりたいって、そう思ってるんで、」
彼は俯きがちに洟をすすって──それからまっすぐにこちらを見つめて、告げた。
「いつまでも、待ってますから」
「……うん、またね!」
今の私には、まだ、応えられないけれど。
これから社会人になったら──もう一度、自分に自信が持てるようになったなら。
その時はきっと、伝えにいくからさ。
***
こちらに背を向けて、ゆったりとした足取りでミツキさんは歩き出す。
入口近くの陽だまりに差し掛かったとき──
その後ろ姿が、ふっと消えた。
驚きはなかった。だよな、と自然に受け入れている自分がいた。びっくりしたという点では、彼女がカフェテリアに入ってきた時点でもう十分に驚かされている。
最初は見間違いかと思ったし、正直に言えば怖れを抱いてもいたのだけれど。悪戯心を丸出しにして背後から驚かそうと忍び寄ってくる(ばればれだ)、その一挙一動があまりにもいつものミツキさんで、俺は途中から吹き出さないよう堪えるので精一杯だった。
──本当は、伝えるべきだったのかもしれない。
最後の最後に見せようとして、見せられなかったもの。
ミツキさんの、リアルの方のアカウント。
・・・
mitsukiの母です。代理の連絡にて失礼いたします。
去る2月、当アカウントの持ち主であるmitsuki本人が不慮の事故により急逝いたしました。
生前ご交友の有る皆様には多大なご懇親を賜り、誠にありがとうございました。
家族一同、感謝申し上げます。
固定ツイートに掲げられた文面と似たようなそれを、俺は一週間前にメールで受け取った。差出人は、ミツキさんの母親を名乗る人物から。もろもろの遺品を整理していたところで、「親しいお友達」たる俺にたどり着いたとのことだった。
「ワタヌキさんのことは、娘との電話でもたびたび話題にのぼっておりましたから──」
半信半疑ながらもメールに記載された電話番号にかけたところ、お母様からそう伝えられた。俺のほうからも、ミツキさんの地元へお墓参りにいくと約束を取りつけた。五月の長期休暇に向けて、すでに飛行機の予約は押さえてある。
──本当は、伝えるべきじゃなかったのかもしれない。
「好き」だなんて今更で、
「また会いたい」だなんて手遅れな、
そんなことは重々承知してはいたけれど、それでも。
もし、ミツキさんが、わずかでも未練を感じてくれたならば。
いつかまた、この学び舎で出会えたらと、わがままな望みを抱いてしまったから。
「……約束ですよ」
つぶやくと同時に、涙がこぼれた。
遅れて、一陣の風が吹き渡る。どこから運ばれてきたのか、桜と思しき花びらがひらりと舞い、いずこかへと消えていった。
有言実行。
その信条を果たせなかった彼女を、俺はこの学び舎で待ちたいのだ。
彼女に宣言したように、ここで教鞭をとれる日を目指しながら。
<了>