間一髪、迷っていたら間に合わなかった。そんな人生の終わり方
人って、あっけなく旅立ってしまうものなんだ。
さっきまで元気に孫たちとアミューズメントパークで遊んで、ファミレスでカレーを食べて、ウォーキングして、煮物まで作っていたのに。
そんな人が急に倒れて逝ってしまうなんて、誰も思わないよね。
母は、55歳で突然この世を去ってしまった。
再婚相手との離婚が成立して、つい2日前に私の住所へ住民票を移したばかりというタイミングで。
母の再婚相手は、実はDV夫だった
浪費家の父に泣かされてばかりいた母は、父との離婚後、自分が経営する店の常連客だったA氏と再婚した。
事業をしていて羽振りの良かったA氏は、母がやっていた赤ちょうちんに通い詰め、母の料理を褒めちぎって結婚にまで漕ぎ着けた。
きっと母の目には、当時のA氏が福の神にでも見えていたんだろうな。
でも、ホントのところ彼の事業は火の車で、再婚した母の命には多額の保険金がかけられていた。
そんなこととはつゆ知らない私と妹は、母はA氏の元で幸せに暮らしているのだとばかり思っていたけれど。
やがてA氏は、母に日々無理難題をふっかけては、刃物を投げつけたり突起物を目に突きつけたりして脅すようになった。
「こんな不味い飯を食わせて俺を殺す気か?」
「何の役にも立たないオマエなんか死んだほうがましだ!」
母は日に日にやせ細って鳥ガラのような姿になり、
私たち姉妹に連日電話をかけてきては、こんな風に繰り返すのだった。
「お味噌汁ってどうやって作るの?」
「今日の晩ごはんは何にしたらいいかなあ……」
もう一度言うけれど、赤ちょうちんをやっていた母のお店は繁盛していた。
ギョウザやもつ煮込みなどは大人気メニューで、常連客だったA氏もそれを褒めちぎっていたはずだ。
そんな母の料理が、不味いはずはない。
お味噌汁の作り方や献立に悩むなんて、母にしてはあり得ないことだった。
家を飛び出した母をかくまった私は、周囲のお騒がせ人物になってしまった
そんなある日、母はとうとうA氏の元を飛び出した。
ベルトをシュッと引き抜き、母ににじり寄ったA氏の隙をついて、母は一目散に外へ走り出したという。
着の身着のまま、原付バイクにまたがって私の家に逃げ込んだ母は、それから一度も自宅に戻ることはなかった。
すっかりノイローゼ状態になっていた母に代わって、私はA氏と闘うハメに陥った。
まだ小さな子供たちを抱えながら、連日連夜に渡る執拗な脅迫電話を(証拠のために)録音し続けた。
A氏は、私の親戚縁者にも片っ端から私を糾弾する電話をかけていたから、私はそれらの電話を受けた人々の苦情にも対応しなければならなかった。
そんなわけで、私はすっかり周囲のお騒がせな人物になってしまっていた。
心配している風を装って厄介払いを要求してくる人たち
A氏の電話を受けた人々からは、私の元にこんな助言が寄せられた。
「お母さんが自分で選んで再婚したんだから、お母さんの問題でしょ。子供に危害が及ぶのも困るし、ここはお母さん自身にまかせて、あまり深く関わらない方がいい」
それは一見、私たちの依存的な関係を指摘し 自立思考を促す「大人なアドバイス」のようにも思える。
けれども私にはそれがとても腹立たしかった。
こちらを心配している風を装っていたけれど、彼らの本音は、
「迷惑だから早く厄介払いをしてちょうだい」というのがダダ漏れだったから。
母はその頃にはもう、半分正気を失っていて、少し前には自殺未遂すら起こしていた。
そんな状態で、母を放り出せというの?
私だって怖かったし、ものすごく苦痛も感じていた。
他人は誰も助けてくれないことを、この時ほど痛感したこともなかった。
夫や子供たちにも辛い思いをさせて申し訳ないとも思ったけど、でも人として、母を放り出すことはどうしても出来なかった。
だから私は、どんな結末になろうとも「母の今後をすべて引き受ける」ことを、自分の意思で選んだ。
孤立無援な中、母をシェルターに逃がし、母はそこからDV裁判と離婚調停を起こすことになった。
そして私も陳述書を書き、調停にも付き添って、ほとんど正気を失っていた母の代理のような役割をこなしたのだった。
離婚成立後、用心のために母を「父のいる」妹の家へ
裁判が終わり、前科一犯となったA氏との離婚が成立すると、あれほど抜け殻のようだった母はびっくりするほど急激に生気を取り戻した。
A氏の報復を恐れた私たち姉妹は、シェルターから戻った母をいったん妹の家にかくまうことにした。
妹夫婦は父と同居していたので、母は「離婚した元夫」と一時的にせよ寝食を共にすることになった。母にとっては何とも皮肉な話だけど。
元気になった母は、「もう少しゆっくりしたら?」という私の声を振り切って、めまぐるしく色んな手続きを進めていった。
住民票を私の家に移し、加入していた共済の掛け金も、もったいないからと解約のために担当者に電話をかけていた。
そして離婚成立から4日、住民票を移してから2日後のこと。
その日は私の息子の5歳の誕生日だった。
母と、私たち姉妹とその子供たちは、ショッピングモールのアミューズメントコーナーに出かけ、ひとしきり遊んだ後はファミレスでランチを食べた。
それから妹たちと一緒に帰宅した母は、
健康のためにと久しぶりにウォーキングをし、これまた久しぶりにキッチンに立って煮物を作ったという。
「今日の煮物はとくに美味いなあ!」
そう言った父は、実に十数年ぶりに母の煮物を食べたのではないだろうか。
その夜、電話が鳴った。妹の旦那さんからだった。
「今、お母さんが倒れて……その、息をしてないんです」
母は、そのまま帰らぬ人となった。
縁とは本当に不思議なものだ
母の葬儀には、直前まで夫であり離婚を拒否していたはずのA氏の姿はなく、代わって親族席には父の姿があった。
棺の中で白い帷子へと旅支度を整えゆく母に、両親を知る人がそっと声をかけた。
「まあ、まるで白無垢の花嫁さんのようじゃないの……ねえ、◯◯さん(父の名前)」
晴れて十数年ぶりに、母は父の元へと再び嫁いだのかもしれない。
離婚し長い年月が経ってもなお、期せずして父の前で亡くなり、父に見送られた母。
縁とは、本当に不思議なものだと思う。
手続きに時間がかかっていたため、母の戸籍はまだ出来ておらず、
「戸籍を作ると同時に死亡届によって抹消する」という、おかしなことにもなっていた。
解約のために担当者に来てもらうはずだった共済は、そのまま死亡保障金の受け取り手続きにシフトした。
たった2日前に正式に母の同居親族となった私に一切の権利が移り、おかげで無事、母の葬儀もお墓もこちらの管轄下に置かれることになった。
これがあと数日遅かったらと思うとゾッとする。
母の遺骨は永久に、A氏の家のお墓に眠ることになっていただろう。
母に掛けられていた多額の保険金がどうなったのか、その後の私は何も知らない。母が旅立ってから半年後、母の後を追うように、A氏も亡くなってしまったから。
彼がしたことは、今となっては私にはもうどうでも良く、ただただ冥福を祈るのみだ。
運命の帳尻は必ず合うようになっている
あの時、恐怖心に尻込みしたり、人目を気にして母を突き離したりせずにいて、本当に良かったと思う。
あの時ほど自分を試されたことはなかったけれど、人としてどうしても手を差し伸べずにはいられなかった。
「究極の選択」ではないけれど、人は時に、こうした岐路に立たされるものなのかもしれないね。
その時、心のベクトルがどちらを向いているか……。
自分を守るための保身か、それとも滅私で向き合う奉仕なのか。
それによって、結果もまた違ったものになっていたかもしれないな、と思う。
私の人生がこの先どこまで続いて行くのかは分からない。
けれど、あの時の母と同じ年齢になった今、母の分まで健康で幸せに生きて、人生を楽しみたいと思っている。
あの頃、大変な思いを一緒に潜り抜けてきた妹と、私の夫、そして子供たち。
当時は本当に大変だったよね。ありがとうね。
きっと私たちはもう、逆風になんて負けないよ。
だって、「人生の手探りの中で、何を選択すればいいか」という問いへの答えを、ちゃんと知っているんだから。
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