「なんかしらんができる」をテキスト化することは難しい

なんというか、思っていることを記号とか信号にしてつたえるのに粒子モデルと波形モデルでつたわるというよりも、ただなんとなく確率的にパターンが一致する確率が高くなると伝わることもある。社会とか自然がどうであるかを模写してテキスト化することを競い合って、なんとなく一致するか確度の高さを競う。これはエモーショナルな場合の一致でもある。

「学校の授業は退屈である」と漫画で定義されたら、それに従順であることが文化的に正しいということになったら、漫画の定義は何が何でも社会に取り込まなければならないっていうのは。。なんだろう思春期の進学校の生徒とかには勉強をすることがダサいという文化があったりすることがある。まんまそれを信じると天動説なのか地動説なのかっていうか、信仰の問題になる。。。ただしかし、信仰が悪いとは言えない。

「机上の空論に基づいて動く反復単純作業をやらされることは退屈である」というのがだめでも、現に我々は学校という空間でそのある程度の均質さの一致をさせている。だから、たとえ退屈だとしても、机上の空論も邪教ではなく、反復単純作業も卑しいものでもないんだけど、それを蔑視することによって、大半の妄想家と大半の思考停止人間にとっては、生きづらい感じになることある。単に模写しただけのテキストが偶然届いたとして、その巧拙を競うということと、私の伝えたいメッセージは違うかも知れないけど
退屈そうに見えることが退屈とは限らないよ。
退屈な作業の連続の中にボーナスタイムがある

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