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そこにいないわたしが撮る写真

最近兄の機嫌がとても悪い。というかなんだか感じが悪い。わたしがなにかしたのだろうかと考えるも、何も思い当たる節がない。なんならわたしの方が兄に対して腹を立てているのだけれど、感情を優位にして合理性に欠くようでは、今まさに兄の機嫌に口出しをしている自分に示しがつかないので、平静を装っている。おかしな言い回しだけれど、努めて、面倒だな、とだけ感じている。

わたしは基本的に人間が嫌いなので、家族といえどもなるべく関わり合いにならないようにしているし、同時に人間が好きでもあるので、こういった他人の感情の機微に敏感でもある。故にときどきひどく疲れる。己の矛盾が、それこそ人であると思うものの、折り合いをつけるよりもまず疲弊する。つくづく生きるのは難しいと思うし、その難しさのほとんどが生活の中の他人との関わりによるもので、わたしはそういった環境に生きていたくない。ひとりでいたいわけではないけれど、ほとんどの時間を静かに穏やかに過ごせたらと思う。

ではそれを実現するためになにをすべきかと問われれば、皆目見当もつかない。山奥でひっそりと暮らすなんて現実的ではないし、ときどき人里に降りるような生活はどう考えても退屈で、生活の目処すら立たない。もっと他人行儀な都会に移り住むのも良いかなと思いつつ、しかしそれもまたわたしを取り巻く環境が許してくれるとも思えない。ただ、ときどき山に入って写真を撮ったり、ただ漫然としていたりするのが今できる最良である。

静かで、湿っている。ざわめきはしかし他人を感じさせず、においも心地よい。家のようだ。家と違ってひらけているのに、家と同じく閉じている。ここでは痕跡だけが人であり、喋らず、見ず、聞かないから、わずらわしくない。ここは人が持つ、意味にとらわれない。

写真を撮り歩くのは自分が世界を見るひとりとして、その景色になにかしらの情動を持つからであり、しかしわたしの写真は無意味であるがゆえ、わたし自身もそこに居ないかのように、ただ現実を写している。情動は空虚に浮かんでいて、掴みどころなく、写真は結果として残る。

意味も情動もない混迷

わたしはただ人であるがゆえ、人は意味を求めるのだと解釈している。それは卑劣な罠であると思うし、人たらしむものでもあると思う。余計な悩み事は意味を求めるからうまれるのであって、意味があるから悩むのではない。だからせめて空気でありたい。わたしがそこに居たなんて、誰も感じない写真を撮りたい。それこそがわたしが生きたい無意味だから。

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