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無意味、乳酸、静かなギヤの音

言わなくてもいいと思いますがトップ画像はゾルキーくんです、ライカではありません。とても安くてわりと頑丈なソ連製ライカコピーです。

わたしの写真に意味はありません。世界はこんなに綺麗なんだとか、それを切り取るとか、なんかそんな感じの綺麗な情動はありません。それがわたしにとって実のところややコンプレックスらしきものであり、趣味にしたってナンセンスにもほどがあると思うのです。

わたしは以前文学をやっていました。もちろんプロの作家などでなくただの手慰みです。ですが、作品には必ず意味がありました。それが物語にせよ随筆にせよ、根底にテーマがあり、読者との対話があり、強い情動がありました。それは大変にいやらしいものです。人間の気に入らない部分や、競争を嫌う人生観をさりげなく落とし込み、冬の指先にできる逆剥けのような、喉に引っかかる魚の骨みたいな、そんないやらしい批判を誰にでもわかる言葉遣いで書いていたのです。わたしはいわば、トガっていたのです。

ですが今のわたしは随分丸くなってしまったようで、同じ表現の場であっても、写真に意味を落とし込むことはありません。演出という行為そのものにあまり興味が無くて、撮影という文字そのまま、いわゆるおさんぽスナップとしてなにかの影を撮るばかりです。

そもそもわたしは写真に興味がありませんでした。わたしの興味の対象は古くて小さな、それでいて緻密で精巧な機械であり、その構造、つまりはフィルムカメラそのものだったのです。はじまりは興味本位によるオリンパス・ペンEE2の分解清掃、整備からで、わたしが写真の世界に入り込んだのはその試験運用のためであり、そして現像から上がってきたフィルム写真に心を動かされ、今に至ったのです。なので、そもそもの入口として写真表現という芸術にありませんでした。

わたしは、写真も芸術の一環だと思っています。まだまだ歴史の浅い芸術分野ではありますが、情に訴えかける写真作品というものもよく見ますし、それは時として絵画の模倣であったり、ありありとした現実であったり様々です。昨今では現像ソフト、レタッチソフトを巧みに使いこなして日常を大変情緒的に仕上げてみせたり、カメラ機材の技術革新による新たな撮影技法の確立など、まだまだ表現の幅は拡がってゆくのだろうなと期待させてくれます。では、わたしの写真は?

ゴキゲンな消火栓たち

見ての通り、ただそこにあるものを撮っただけです。消火栓の標識がゴキゲンだった、ただそれだけのことです。胃腸科のはりま内科もすぐそこにあるようですね。

つまりは、わたしは芸術表現の世界に一応は足を踏み入れておきながら、そこになんの感慨も信念もなく、見たものを共有する程度のことしかやっていません。言うなればわたしは世界を見ているだけであり、とどのつまり撮影者の立場でありながらただ鑑賞者であるばかりなのです。わたしは見ます。そして撮ります。その視点は芸術家のそれではなく、ただそこにあった景色の認知に過ぎないのです。それがわたしの写真です。

わたしはそれがなにか間違っているとは思いませんし、そもそも正解などないと思っています。ですが一方で、自分のやっていることの無意味さに時折げんなりして、しかも見ず知らずのおじさんに怪しまれたりしながらも、わたしはいったい何をやっているのだろうと考えてしまうのです。さらに言えばこのような悩み事さえ無意味で、うじうじしていてどうするのだという話でしかありません。ただ重要なのは、鑑賞者の目をわたしが持っていること、本当のところそれだけなのでしょう。

乳酸のたまったふくらはぎを引きずりながら、そんなことを考えました。散歩して、写真を撮る。そこに意味なんてありません。ただ世界が、実際的な意味を持つだけでした。

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