わたしは素敵を選べない
写真表現の技法にわたしの大好きなパンフォーカスというものがありますが、わたしがこれを多用する理由について少しお話を。
といっても、すごく単純なことで、わたしは景色の鑑賞者の目線から、その相対する空気感全てに対して好ましいと思っているからなのです。よく「キリトリセカイ」というハッシュタグを見ますが、わたしはキリトレナイオタクなのです。そこにある何かの美しさを写真に収めるということができず、いやここにあるもの全部ひっくるめてイケてるじゃんどうしようと思っているのですね。
写真のように、わたしがイケてんな……と思うものは大抵が無機質さの強い建物とか、道とかなのです。ごちゃついた町並み、あんまりにも張り巡らされて不安になる電線、そういうものがわたしの琴線に触れるのですね。こんな有様なので、お花を綺麗に可愛く撮れる人はすごいなと思います。わたしは植物の茎のうねりだとか、葉脈の這うルールだとか、そういうもの全てを収めたくなりますし、街中に入ればその空気が気に入っていて、そうなればもう明確な被写体なんて選べないわけです。
よく「写真は引き算」と言います。それはその通りです。ですが語弊のないように言うならばそれは、演繹的に写真を撮るというより帰納的に写真を撮る上での引き算です。自分が導き出した回答に向かっての引き算、つまり10-x=8のxを求める撮影を、そう呼ぶのだと思っています。ただ困ったことにわたしの式はいつも10-x=10です。
この写真などはピント面は手前の、なんていうか忘れましたがなんか石柱にあっていますが、背景もわかるようにボケが弱く作られています。わたしにしては珍しくボケ表現を用いた写真です。平日の観光地の空気感と思うと結局撮影段階で選別が出来なくて、全てが判別可能な写真になっています。選べません、この写真の中のどれが素敵かなんて、木も人物もテントもノボリも石垣も橋もなんか石柱も影も空も陽当たりも、どれも素敵なのです。だからきっとこれは正解なのだと思いながら写真を撮っています。
この写真も全てが必要でした。先の例は割と特別で、普段わたしが使うボケ表現は手前ボケくらいです。猫ちゃんでもいない限り、絞り開放で撮ることなど滅多にありません。なにかひとつただそれだけではそこにいて、見たものを写真に出来ないのです。ですがそういった表現、被写体をひとつに絞る表現が上手い方は多くおられまして、正直そこに羨望があります。わたしは単にパンフォーカス撮影が得意だからとかそういうのではなく、そもそもたいてい全部好きなのです。
そんなわけでして、写真は引き算という先達のお言葉についていまいち飲み込めない自分がいます。それはすごい技術のように思えてなりません。お花か猫ちゃんでしかそんな表現できないわたしです。が、パンフォーカス撮影の良さというのもお伝え出来ればと思いました。
まあ結局は余計なものを構図に入れないという意味で引き算なのかもしれませんが……
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