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写真表現の終わり、日陰者の憤り


先日、ぶどうジュースを頂いた。
これが甘いのにどこかタンニンを感じる味わいで、ワインのように皮ごと絞っているのかしらなどと思いながらゴクゴク飲んでいたら、なんと500mlしか入っていないじゃあないか。
喉が渇いたから飲む、なんて消費の仕方をしてしまったのが口惜しい。

ところで写真。

エモい写真には白枠がついている

わたしはこういう現像が好きじゃない。でも好きだからできる、悔しいことに嫌いと言いきれない。
いわゆるエモさを感じる写真、なにか記憶を呼び起こし追体験させるような色彩、光の表現。
だがこれはほとんどLightroomで作り上げられる。

何が問題って、なにも問題じゃあない。わたしがただ気に入らないというだけで、ものすごくとばっちりというか、勝手に腹を立てているだけだ。
なぜ腹が立つのかもわからない、流行りものが嫌いなのかなんなのか。

ただひとつ言えることは、この表現で満足していられるなら写真なんかもうやめている。

いつもの写真

誰かが発明し、誰もが真似する表現は優れた表現に違いない。
ただそれをやり続けるのはただの追従でしかなく、それを良しとし続けるのはただの共感でしかない。
これがいいのだ、というひとつの指標に対して全員がそうだそうだと言っているだけで、ではそこにはなにがあるのか?ということには誰も興味を持たない。
写真表現という場において、エモいというひとことで済んでしまう、それはまあ良いとしても、エモい現像、エモいシーン、そればかり追い求めていて自分は一体何を見ているのか、そこがおざなりになっていちゃしょうがない。

わたしはとても苦しんでいる。エモい写真をくだらないと思っている。でもエモい写真を見るのはエモいから好きだ。くだらなくなんてない。むしろわたしの一見しても意味不明な写真の方がくだらない。だけどわたしの写真はくだらなくない。意味がある。

写真とはそれぞれに目的がある。エモい写真にはエモさという目的があるし、わたしの写真にはある表現の追求という目的がある。それぞれがそれぞれでいい。ただわたしだけはエモくてはいけないのだ。

きっとこんなものは誰も望まない。そう思うと時々、本当に時々だけれど、どうしようもなく悔しくなる。
これがわたしである、それでわたしは良い、だけれど、それはほとんど誰も興味が無い。

じゃあ? わたしにもできることがある、エモい現像、エモいシーン。

だけれどならばわたしの人差し指を切り落とせ、とも思う。
そんな誰かの評価軸に任せた表現なんてやろうものなら、表現者としての命を絶て、と思う。
アマチュアなんだ、先鋭的であれ、無いものを探し続けろ、それが必要だからカメラなんて持ち出すんだろうに。

すなわち混乱、とても気分が悪いのです。
文芸をやめて数年、また表現の場に戻ってきたことを痛いほど自覚しました。
また苦しむのだ、何者にもなれぬと再確認するのだ。

ただ幸いにして、うちにはまだふてぶてしい猫がいる

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