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個性にとらわれる写真趣味

わたしの住む地方はそうそう雪が降ることなく、積もるなんて数年に1度程度だったのですけれど、昨年も、今年も、なんとなく降ってきた雪が予想外に積もり始めて、ああまた交通が混乱してしまうと悩んでいるところです。なにせそういう土地柄ですから、冬用タイヤを誰もが装着しているわけもなく、必ずどこかで事故が起こる。想像するだけで胃がキリキリしてきます。

写真を撮る者にとって、おそらく個性とは大事な言葉なのでしょう。わたしも時々、自分の写真にはどんな自分が反映されているだろうと考えることがあります。風景をどう切り取るか、それをどう現像、レタッチするか、そこに個性が宿るのは確かです。なんなら現像レタッチせずとも個性というものはなんとなく感じられるもので、インスタグラムを眺めていても、ああ、この人が撮ったのだな、この人らしいな、と傍目には思うものです。

雪が積もると仕事が滞るので複雑な気持ちです

しかし皆が皆そうでないように、最近「SNSで人気のフォトグラファーはみんな似たような撮り方とレタッチをする」という旨のことを発信されている方を見かけました。そしてそれは結果的に没個性なのだと。

ハルキゲニアみたいなイス

ある意味ではそうかもしれません。フィルム風レタッチが流行りとして確かにありますし、モノクロの世界でも有名な写真作家さんに似せた表現技法がよく使われています。そういった先達の表現方法を模倣するような写真は、流行ってしまえば陳腐化され、我々と同じ高さまで引きずり降ろされているような気がします。ですがそれを没個性と言うべきか、わたしにはわかりません。

それは表現技法という知識の共有であり、誰もが扱えることそれ自体は良いことのように思えます。写真における非言語コミュニケーションのひとつと言えるかもしれません。なればこそ、SNS上で、という前提に則り、それはまったく正しい、対話の間口を広げる表現なのではないかなと思います。フィルム風レタッチであれティールアンドオレンジであれ、それは鑑賞者との間で交わされる言語であり、それが合わないならばきっと違う言語体系のもとに生きているだけなのです。

よい街灯

故に、個性というものはそういった手練手管の表現方法にばかり依らず、被写体や構図、画角、ホワイトバランスの感覚や露出の感覚等々、もっと細部に多く存在しているはずです。もちろん、使う機材だって個性です。ただシャッターを切るという行為に至るまでにも選択の連続があり、その末に一枚の写真が生まれるのですから、少なくともわたしは誰の写真を見るときでも、個性らしきものは感じています。

結局のところ凡百の我々はときどき個性という言葉に踊らされているだけで、意識せずともほとんどの人は、その人が反映された写真を撮ってきます。そんな人々の中にはきっと、写真の教科書のような本を読んで、手法を学んだ人もいるでしょう。それでもやはり、凡百のひとつに違いなく、その人に他ならぬと思います。思うに、写真を見ることのほうがずっと大事なのでしょう。その写真が芸術であれ記録であれ、基本的に、それはコミュニケーションであるということを忘れてはいけません。まずは挨拶を大事にしましょう。それがはじめは没個性的写真に思えても。

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