愛する

「悪い夢見た?」

「……そう……かも」

自然に目覚めたけれども、思ったより汗をかいていて、少し動悸も感じる。幾分か前の覚えていない自分は、そうさせる何かの下に居たのかもしれない。僕の人生はいつも、漠然としている。

「もうちょっと寝る?」

「いや、大丈夫」

「じゃあ朝ごはん作るね、ちょっと待ってて」

あなたは勉強机の椅子から立ち上がり、ドア一枚隔てた向こうのキッチンへ行った。部屋に残った僕は、今日は気の回らないやる気のない日で、何も考えていない感覚のままカーテンを閉めて電気を消した。戻ってきたあなたが気付かないはずがないのに。

「ごめん、明るかった?」

「……うーん……」

「明るい方がなんとなく、気分がすっとするかなって……」

「うん、カーテンだけ開けようかな」

暗い方が落ち着く。でもその落ち着きは朝になってまで受け取るものではないと何となく分かっていて、あなたの言葉を受け取る心地良さが勝る。カーテンを引く力、その時の音、浴びる光、それらは感覚となって、それが心の扉のような、そしてそれを開け放ったような、そんな清やかな感覚を一ミリくらい植え付ける。でも今日はちょっときつい明るさだな。

「今日は陽が強い気がする」

振り返って言う。

「夏が近いかもね」

あなたは笑った。


冷めても美味しい玉子焼は、自分の心持ちに従って食べられる。ふわりと湯気の立つお味噌汁は、不思議と心まで温める。可愛い茶碗に盛られたご飯は、一口噛むごとにほんの少し死を遠ざける。別にいいのに、早く食べ終わりそうなことを気にしているのか、あなたはよく箸を持ちながら僕を見る。待っていることを悟られないように箸を置かないのだろうな、とか、偶然と考えた方が妥当であろうことを配慮と推測させては感謝を覚えさせる、あなたはそのくらい、僕以上に考えすぎる人だ。僕ももう少し考えられたら、または、更に過敏な感覚に耐えられたなら、あなたみたいに笑顔で、迷惑をかけずに暮らしていけるのだろうか。自分の狭いキャパシティによく嫌気が差すけれど、それだけは表に出さないようにしている。あなたは僕以上に沈んでしまう、そんな気がして。

「おいしいよ、ありがとう」

「よかった、こちらこそ、ありがとう」

軽くはにかむあなたに、また申し訳なくなる。

「……ごめんね、まだ、緊張してる」

「人の部屋だもん、緊張してくれて、むしろちょっとありがたいよ」

澄んだあなたの部屋は、出し放しの教科書といった慎ましやかな生活感で飾られている。空間は広く淡く統一されているので僕のあげた赤いマグカップや木のペン立てが大いに浮いている。それでもどちらもいつも中身が入っていて大事にされているのが分かった。カップを優しく両手で包んで飲み物に口をつけない内から微笑むあなたを見る時は、いたたまれない気持ちにすらなる。あなたはきっと、僕なんかのことを、愛して、いるんだ、と思う度の事。

「いつもごめんね、今日はどこか行こう、カフェとか、雑貨屋さんとか、植物園とかどうかな」

「どこもいいね、楽しそう、……でも」

あなたは目を細めてから、少し視線を下に泳がせた。

「私はずっとさざ波みたいでいいのに」

簡潔の中でありったけのニュアンスを保持した言葉をあなたはいつも通り選び取り、僕に伝えた。あなたは常に僕を先回りする。思いやり、譲り合い、愛情表現に至るまで、決まって僕が楽をさせられてしまう。ごちそうさまと丁寧に手を合わせて、狭いシンクを分け合って皿を洗ってしまって、したいように身を整えて、雑味の無い空間に戻った。彼女の目が一層優しくなっていた。温かいと知っている、柔らかい頬に手をあてる。合図と言ってしまいたくはない、ただいつでも等しくそうしたくなるというだけ。あなたのキスは性的な味などまるでしなくて、他の何処にもない快適な同情がそこにあって。

さざ波だった。少し日が傾いて涼しい時、砂の上をあなたと横並びで歩いている。左から寄せては返す小さな波は、その中でも大小を持って、同じ時は二度と無い。たまに手を握ったり、追いかけっこしたりしたくなる。それから。それは、波にさらわせる。戻ってきてしまう。

もう随分長い事いなし続けているのに、僕の脳は何度でも燻ぶる欲望に向き合えと逐一その存在を浮上させてくる。ここ暫くこの調子だ。あなたの目を盗んで頭を髪ごとぐしゃぐしゃと引っ掻き回し、一回深く深く吸って吐く。

欲望は決して悪いことではない。むしろあなたの事を愛している強い証拠だとも言える。しかし、巷では最上級の愛情表現として取り扱われている例の欲望が一度叶った後、はたして僕らは、僕は、さざ波を選び続けていられるだろうか。「さざ波みたいでいい」と言った時のあなたの温かな、清潔な微笑を、僕は留めておけるのだろうか。愛に関する煩わしい全てのことが心地好い感覚と共に解決してしまうなら、無意識のうちに、或いは良かれと思って、その選択肢を繰り返し進んでしまうのではないだろうか。そうして結局、あんなに大切だった愛は別の何かにすり変わって、いつの間にか形骸化して……僕らは、おしまいになる。安定して愛を愛たらしめる為の壁が一枚、今僕とあなたとの間にはあって、襲い来る不安でさえそれを軽率に破壊する理由には恐らく足りなくて、ならば欲望等という理由では一層そんな事をしてはいけなくて、……視線を戻したあなたは僕の髪にゆっくり手を伸ばし、ただ手櫛を通していった。ただとても幸せそうな顔をしていた。そして、

「買い物行こうと思うんだけど、お昼はなにがいい?」

僕がハンドルを切りたい方向へ、彼女はまた限りなく軽く手を添える。まるで守護霊みたいに。ひいては、存在しないみたいに。浮ついた返事をしてしまった気がした時には、あなたはもう音を出さずに玄関を閉めていた。


急にあなたとの遠さを感じてしまった。壁があることに不安を覚えてしまった。壁がなくなってなお愛が在り続けるのならどんなに良いだろう。それともあるべき距離ではなくて、なくすべき距離なのかもしれない。頭を触るだけに留め、静止した部屋で脳内だけに向き合う。

例えば何処までも安らかな看取りが何処にでもあるように、おしまいにならなかった愛は数え切れない程ある。そして、おしまいになった愛も。両者の違いについて僕は知る由もないと思っていたし、運だとか思っている節もあった。その曖昧な場所を僕は壁だと無意識に催眠していたのではないか。そこは見つめるべき場所なのではないか。

僕がこんな気持ちに辿り着くのは決して三大欲求の一角ではないんだ、と、確信を持とうとしていた。僕が欲しいのは、繋がり、温度、圧迫、……違う、もっと奥底の何かを近づけて、共鳴させて、そんなことがあるのか分からないがあわよくば嗚呼形の無いそれが一つになったと感じたい。瞳の奥底の大切なものを観測したい。そのような愛をしたい。そんな夢想をしていた。逃げに過ぎないのに。邪な考えを多量に抱えている事から目を背けたかった。僕は聖人にはなれず、愛をおしまいにした人々は聖人ではなかったからだ。だがやはり愛の在り続けた人々も聖人ではなかったはずなのだ。そもそも形の無いそれが一つになるまで、瞳の奥底の大切なものを観測出来るようになるまで、というのは欲望に依るべきではない。変わらない事、を求めているのだから愛を構成する物事は最初から揃えていなくてはいけない。あなたとの関係は常に最上級であるべきで、言い換えれば常に最上級であればいい。どうやって?

意味を確かめる、ということを考えた。目の前のあなたが、欲望が向くところのあなたが、僕が愛しているあなたが、あなたでなければならない意味を見失う事さえ無ければ。その意味は欲望には帰着しないはずだ。何故なら欲望の求めるものはどこまでも集合に過ぎないから。仮にあなたを全ての面で上回る女性を一切の問題無く自分の伴侶と出来る機会が訪れたとする。あなたである意味が欲望に依るのならこれを逃そうとは思わない。しかし実際は。

自分の過去を手繰れば、これまでとはあなただった。予定といえばあなたの誕生日に始まり共に過ごすイベント日ばかり思い起こした。頭の引き出しを近い順に開ければ物事、風景、言葉……ひたすらあなたの欠片が入っていた。部屋としてイメージされるのは陰で淀んで覚えられない自室ではなく光休まるこの部屋だった。僕を限りなく自由なまま世界に留めようとしてくれていたのはあなただった。そうして僕の二人称に居たのが、あなただった。

そう、ただ、これまでがあなたであったのだからこれからもあなたでなくてはいけない。きっと、絶対に。感謝や礼儀や体裁や約束の域を超えて、これは全くそうなのだ。そしてこれまでの先端まで遡る度、素晴らしかった全ては欲望を優に超えていった。僕は、愛を知っていると言っていいのかもしれない。僕は戻ることが出来る。続くことが出来る。そしておそらくあなたも。これからが鮮明になった。それはこれまでによく似た景色だった。やはり、さざ波だった。

僕はあなたを愛していた。今も愛している。そしてこれからも愛していきたい。愛していく。そこまで全て纏めた上で初めて僕は、今、あなたを、愛する、と言う。言うだけには留まらない。僕は慎重さだけが取り柄のこの身でそれを、捉えに行く。この上なく、そう、したかった。

やがてドアが静かに開いた。後はまず向かい合えるように、あなたを呼ぶだけだった。あなたは僕以上に考えすぎる人。あなたが領域を越えて来なかったのは他の何でもなく、僕が領域を越えようとしていないと見たからなのかもしれないから。


「いいの……?」

いいよ、ではなかった。心配? ううん、驚喜だよ。僕とどこまでも細やかに通じ合おうとするあなた。あなたのニュアンス。明確になっている、二人で切っているハンドル。もう長いこと一緒に居たから、あなたは僕の最終的思考がまさかこんなに電撃的なものだとは思わないだろう。尤もそれはあなたが不安に思わなくて済む以上の価値は持たないことだ。僕は一旦だが、終着した。変わらない風景の中で終着出来て、本当に良かった。

しようとすれば幾らでも暴力に出来ることを、必死に愛に纏め上げた。至らなくて、纏めあげようとした、と言わざるを得なくなってしまったところもあったが、決してそれが暴力になることはなかった。欲望が心地好さに変わり消化されたあと、それでもあなたを見ていた。あなたの頬に手をあてて、意味を込めてキスをした。これからもあなたと人生を共にして、僕もあなたもあらゆる欲望を満たしていくが、根底の価値の質量は変わらない。だから、大丈夫。あなたの目の奥を覗かない内から、大切なものははっきり見えた。僕とあなたはその時、同じだった。疑わない。息を飲み、波にさらわれない様、深く深く埋める様に僕は口に出したのだ。

「愛してる」

「うん、……愛してる」

あなたは笑った。何も失うことなく、何を加え過ぎることもなく、寄せて返せば、また寄る。続いていく。

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