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Lily-livered Youths

※軽度の性的要素を含みます。


 史実は十畳の部屋の隅に体育座りをしてじっと感じていた。目の前で行われて終わってを繰り返す幾つもの偏固な挨拶を。肌を滑り上がる熱水、口から鼻に抜ける体液、鼓膜の内側で反射する嬌声、細い視野を埋め尽くす使い古された儀式を、じっと感じていた。廊下から振動と打撃。私の目の前で起こったものかもしれない。どうでも良かった。温く滑った水槽で絡みが沸々と悪化し続ける布袋葵の享楽がこれで、私の鑑賞がこれ。それだけだった。

 史実は映画研究部の部室が大嫌いだ。焦がした挙句煙草ジャムを塗りたくった消費期限切れ食パンのトースト六枚で閉じられたような小さな部屋に、三角コーナーの底から引っ張り上げてきた網布団が層をなして絨毯となり、一番奥の中央に神鏡の如く据えられたスクリーンは田螺に似た新品である。壁にこびりついた名作映画のポスターを覆い隠すポルノのチラシを誰も居ない隙に毟り毟り、しかし今日でセロテープは六段になり、遺った女優の右目を飴色に濁している。最悪だった。しかし、人々が少なからず秘匿する営みを最も近くで鑑賞できるというただ一点において、映画研究部という共同体は史実にとってかけがえのない存在であるので、いかなる嫌悪も大した感情としては扱われないのであった。
 十人程集まったところで、誰かがスクリーンに青い光を当て、やがて映画が始まった。既に見飽きることに飽きてしまった白黒映画で、音声はけたたましい数値に設定されて流される。とはいえ、流れているのが美しい映画ではあるというだけで史実は落ち着くことが出来た。一応明言しておくと、誰も映画など見ていない。ただ適度なライティングとモザイクとなる音声、雰囲気の加速器として映画が不当に働かされているだけである。史実は部屋の隅に体育座りをする。初めこそ皆彼女を言葉巧みに誘ったが、程なく彼女には違う目的を持った人間であるらしいというラベリングのみがなされ、それ以上の着色無く史実は鑑賞者としての位置を獲得した。この共同体の人々にとっては、その瞬間の相手が居さえすれば環境などは問題になり得ないのである。史実はこの場所で、よく映画の目合と現実の性交とを見比べ、ここは等しくここは異なりここは有り得ない、ということを考え続けていた。しかし、最近は少し見分けが付かなくなっている気がしている。自分が何を求めているのか、取り戻すために史実は何度も瞬きをした。

「ふみさん」
 前からやって来る上裸の男がいた。体の前にも横にも後ろにも、幾つも黒い筆記体のタトゥーが彫られており史実はほんの少しそれを眺めた。彼は涼しい顔をして史実の隣に胡坐をかき、手に持っていたペットボトルのスポーツドリンクを飲み干した。
「今日は気が乗らなかったの?」
「いやあ実は、皆と違って僕は見られながらするのが苦手なんです。ふみさんが僕としてくれれば解決なんですけどね」
 彼は一番近くにいる二人のリズムに合わせて空のペットボトルをぺこぺこ凹ませながら、目まで笑って史実の返事を待っていた。
「さすが、秀って名前を貰ってるだけあるね。賢いわ。動物の中では」
「光栄です」
 映画はシリアスな終幕へ向かっていた。映画だって脱していくのにこの場所は、と史実は溜息をついた。
「ふみさんはこうしてセックスを見るのが好きなんですよね」
「どうだろう。この部の光景を見ているのは好きと言えると思うけど」
「どうしてですか?」
「さあ、興味があるから……考えてみたけどよくわからなかった。私、へたくそな絵とかも好きでよく見るんだけど、たぶんそういう感じ?」
「醜さの美しさ……ですか?」
 醜さ、という響きを訊いた時、史実は自分の心が僅かに沈むのを感じた。そしてそれをなだめるように、曖昧な肯定だけを返した、不本意だった。
「ずっと見てるとしたくなりませんか、羨ましくなったり」
「ぜんぜん?」
「異性交遊は嫌いですか」
「少なくとも異種交遊は受け入れらんないかな」
 THE ENDの文字が映し出される。次の映画を流そうとする部員はいない。映画が終わったことに気付く素振りなんて相手の前で見せたら興冷めだ。自分で次の映画を再生する義理もないので、エンドロールが終わったタイミングで史実は立ち上がり、部室を後にした。廊下で深呼吸をする。部室から出た後だけは、何気ない廊下の匂いが美術館のそれのように嬉しいのだった。息を吐き切る辺りで、いつの間にか上を着た男が着いてきているのに気づいた。
「一緒に帰っても?」
「駅からは分かれるけど」
「十分です」
「永墓君も物好きね」
「しゅうでいいですよ」
「私が嫌なの」
 秀は少し駆け足をして、史実の横に並んだ。史実はそれをまた斜めに戻そうと早足になり、秀がそれに着いて行ったので、異様な速さで二人は建物から出ることになった。外は温くて緩い、締まりのない台詞みたいな、巨大な風が流れていた。より速いスピードを出そうとする史実を、秀は進行方向に横から身を乗り出して遮った。
「明日は授業あるんですか」
「帰るよ、私は」
「一欠片だけ貸してくれればいいんです」
 秀に掴まれた右手首をじっと見て、史実はしばらくそれを振り切れずにいた。自分の中では決まり切っているはずの選択が、自分の中から生えてくるのでしか有り得ない蔦によって絡め取られていることの得体が知れず、史実は困惑した。
「ふみさんの中にいるはずです。僕が何か教えてくれるんじゃないかって思っているふみさんが。その子を貸してください」
 教えてくれる。その言葉の甘美さに史実はますます困惑した。甘美な物といえば今日流れていた映画のあのシーン、自分はあれを甘美と思っている、史実は考えた。
「明日は午後からよ」
 史実の呟きに秀は少し驚いた顔をして、その後すぐ手首を握っていた手を放し、そのすぐ下の史実の手を握り直した。秀が史実を軽く引っ張るような形で二人は駅に通じない方の道に入っていった。

 にわかに降り出した小雨を潜り抜けて二人は建物に入り、史実は何もしないうちに小綺麗な部屋にいた。画質の良い部屋はむしろチープに見えてしまった。
「よく使うの?」
「ええ、でもこの部屋は初めて取りました」
 いつの間に買っていたのか、史実は秀からストレートティーのペットボトルを渡されてたじろぎつつ、秀の袖が少し捲れてタトゥーが覗いているところに目を落とした。受け取るうちに秀は向かいの椅子に腰掛けていた。
「一つ訊いてもいい?」
「なんでしょう」
「永墓君は、どうして文字ばかりそんなに彫ってるの」
「ああ、ふみさんちらちら見てましたもんね僕の体」
「それはいいから」
 秀は少しの間笑い、その後笑みを弛めて口を開いた。
「貰った言葉と死ねるように、です」
 死、という言葉に史実は反応を隠せなかった。
「意外ですか? ふみさん、本当にセックスしか見てないんですね」
「なによ、その言い方」
 強がりながら咄嗟に見た秀の目には影が落ちていた。
「ふみさん、映研で良いセックスって見たことありますか」
「……映画のようなものは見たことない」
「そうですね。僕がしてる、……できるセックスも、ただの反復です。だから楽に興奮できて、安心するんです」
 秀の言葉に、史実は自分の性交への拘泥を重ねていた。もし映画のように、映画より、魅力的な性交を目の当たりにしようものなら、自分がそれを手に入れられていない事実に気が狂れるだろう。安心するために、惨めな気持ちを落ち着けるために色気のない性交を眺める、それは目の前のあれらの営みと変わらないか、いや、それ以下だ。何故ならあれらでは興奮できて、安心できるのだから。
「でも言葉は違います。心から音声に変わる時、口から出た後、絶え間なく変わってしまう、それが怖いから、でも嬉しいから、慰めに彫ってるんです。少しはその時のまま、死ぬときに思い出せるようにって」
「ロマンチストだね」
「ああ、ロマンチストって言えばいいのか。臆病だとばかり。今度からそう思っておきます」
 秀は上着を脱いで、自分の身体に彫られた文字を眺めていた。史実もつい文字を眺めていた。どれも名前や愛の言葉といったものではなく、日常的にかける言葉ばかりで、それはまるで、映画の最も上質なシーンたちのメモのようだった。
「素直なのね」
 いつの間にかそう呟いていた自分に気付き、史実は咄嗟に口を押さえた。胸の締め付けが弱くなっているのは、どこかの霧が晴れていくのを感じているのは、どうしてだろうか。今の言葉はどうも素直でない自分への当てつけのようだ。つい捩じってしまった花の茎から水が溢れ、それでも切れることはなく、花弁はぴんと張り続けている、けれどもうすぐ枯れてしまうだろう。史実は口に当てた手が濡れるのを感じた。どうしてか、泣いていた。秀はおもむろにベッド脇のティッシュを引き抜き、そっと史実の目に当てた。史実もそっとそれを受け取って、涙が完全に乾くまで沈黙が続いた。
「ごめんなさいね」
 自分が泣き止んだのを確認した後、史実はティッシュをゴミ箱に投げ捨て、茶目っ気を含めながら言った。しかし、秀があまりに真剣な顔で見つめているのを見て、すぐ勢いを失ってしまった。
「僕、素直ですか」
「……ええ」
 秀は史実の続きの言葉を待っていた。史実もそれを感じ取っていた。
「多分形式的な愛っていうより、自分が好きだと思ったものを大切にしてるんでしょ。セックスに囚われてる私と違って、素直、だなって」
 また泣きそうになって、史実はぐっとそれをこらえて少し上を向いた。貰ったペットボトルも開けて誤魔化しに何口も飲んでしまう。こんな時映画なら、その考えの前に史実は押しつぶされそうだった。秀はまたティッシュを抜き取り史実に渡した。史実は戸惑いながらそれを受け取る拍子にまた涙を零した。
「素直ですね」
 明らかに自分に向けられている言葉に史実は顔を隠すしかなかった。
「素直じゃない」
「やだな、こんなの素直に読んでくれるの、ふみさんしかいませんよ。英語だし、で、泣いちゃうし」
 秀は微笑しながら史実の顔を覗き込んだが、史実が顔を背けるとそれ以上はせずに椅子を立って洗面所の方へ消えた。

 すっかり落ち着いた後も、史実はベッドの隅の方に潜り込んで動けなかった。気付けばこんなところに来てしまった自分に嫌気が差しつつ、もう自分の呪いから解かれても良いような気にもなっていて、どうしていいか分からないまま、秀を呼びに行けない事に申し訳無さすら覚えている。考えを塗り潰しているうちに史実は、自分はずっとこんな人間だったかもしれない、と思った。困惑さえ出来れば後は整理して前に進むだけかもしれないと。秀が洗面所から戻ってくる足音がした。
「隣、失礼しますね」
 秀が反対の端から布団に入ってきて、史実はぐっと身を固くした。しかし秀がこちらに来る気配が無く、却って落ち着かなかった。
「映画みたいな、そういうの、ってあるのかな」
「ありますよ」
 史実のぼやきに秀はあっさりと答えた。
「したことあるの」
「ええ。映画研究部ではないですけど」
「そう」
 史実は秀の過去を少し想像して、すぐに止めた。
「だから、ふみさんも。大丈夫ですよ」
 秀からの言葉はそれきりだった。それ以上詮索する事も無く、ただ何もない時間が続き、史実は眠れそうになかった。自分が急いた考えに陥っていることに、史実は気付かない振りをすることしか出来なかった。自分が欲しいものは。
「しないの」
 消え入るような声で史実がそう訊くと、秀はたちまち史実の傍まで来た。
「したいのならもちろん」
「そうじゃないけど」
「そうでしょう。だから、良いんですよ。部室でもないし」
 秀はそれだけ言うとすぐまた布団の反対の端まで戻り、言葉を続けた。
「僕はふみさんと話したかっただけですから。満足です」
 間があって、今度は史実の方から秀に体を向けた。
「それなら眠れるまで話さない? 永墓君の体、真っ黒にしてあげる」
 秀もその声に向き直り、史実の冗談ぽい言い方を真似て返した。
「忘れない言葉を頼みます」
 そんな事を言っても、結局何か他愛ないことばかり、お互いに同じくらい、話していた。史実は秀の言葉に、声に、とても安心を覚えて、そうしていつの間にか寝入っていた。
 
 物音で自然に目覚める。秀が上着を着ているところだった。史実は自分が昨日と同じ場所にいること、本当に何も起きなかったことを確認した。
「おはようございます。動けるようになったら出ましょう」
「うん」
 史実は目を擦る。秀に何か声を掛けたかったが、上手く言葉にならないのを感じていた。
「僕、史実さんに何か教えられたでしょうか」
 おずおずと訊かれて、史実はつい笑ってしまった。そういえばそう口説かれてこの画面の中に来たのだった。
「随分と困らせてくれたね」
「それはすみません」
 困ったように頭を掻く秀を少し見つめてから、史実は飲み込まずに言葉を続けた。
「おかげで色々と整理がつきそう、ありがとうね」
「そうですか、良かったです」
 秀はさっぱりとした顔で言った。それが史実にはどうにも寂しそうな顔に見えて仕方なかった。
「永墓君もタトゥー止めたら? 変わっていくよ、私は」
「いやあ、僕はもう、戻れないんで。ふみさんはどうぞ進んでください」
 史実はせつない気持ちになった。恋愛ではないと思うが、それでこんな気持ちになれるのは、申し訳ないが何処となく救いらしかった。彼に私の言葉のタトゥーを入れて欲しいし入れて欲しくない、そう強く願っていた。
「最近は消せるらしいよ、タトゥー」
「そうですね。選択肢として覚えておきます」
 秀は曖昧な笑顔を史実に見せるように浮かべた。

「でもきっと、そういうものなんですよね」
 ホテルの出口で、秀は思い出したように呟いた。史実が振り返ると、秀は何でもないと言いたげに微笑んだ。二人は歩き出して、言葉もなく、駅で別れた。

 あれ以来史実は映画研究部に行かなくなった。その内自然退部という形になるだろう。ところで、向こうが今どんな姿であれどうせ秀にはまた会うだろうという安心が大きくあって、それに自分で気づいた史実は一人微笑んだ。

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