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疑いと信頼、その境界線で僕は思った

僕は、決して心が強い方ではないから、すぐにいじけてみたり、悲観的になったり、殻に閉じこもってみたり、どうせ自分なんてと卑下してみたりしてその場から立ち去ったりと、そんなに簡単ではない感情を常に抱きかかえてだましだまし生きてきた。

「意外ですね」

と言われることが多いのだけど、飲み会やパーティーは大の苦手で、「すみません、次があるので」などとあたふたしたそぶりを見せて、誰よりも先に会場から立ち去ることも少なくない。

誰かに悟られることなく、いつでもその場を抜け出せるように、カバンやコートをクロークに預けたりすることもほとんどない。

華やかな会場であればあるほど、急に孤独を感じ、耐えられなくなってその場を去ってしまう。なぜそんな風に思うのかは、よくわからない。考えてみようかと思ったりもするが、そんなに自分の暗部と向き合うほど暇ではないので、自分にさえ背を向けて、やはりだましだまし生きている。

いつも笑顔で前向きなパブリックな自分と、下を向いて人と目を合わせるのさえ苦手な自分の狭間にあって、僕は僕の言葉をあまり信じていないし、僕は僕の存在そのものに対してもある程度懐疑的に向き合ってきた。

そんな自分をあえて肯定すると、常に懐疑的であることは、今の仕事においては決してマイナスではなく、プラスに働く場合の方が大きい。ほんとかな?の連続が隠された実像に近づく一つの術だというのは確証を持って言えることだから。

でも、一つだけ、怖いなと思ったことがある。

僕は、自分以外の誰かを信じることができるのだろうか?と。

いざという時に、人を信じることができずに相手に負担をかけてしまう苦い経験をいくつもしてきた。振り返って見れば大したことではなかったはずなのに、懐疑的な姿勢は、猜疑心に変わって、互いを傷つけあって終わってしまうのだ。

嫌だなと思う。

自分を信じることができなくても、結果が伴えばうまくやり過ごすことができる。でも、人を信じることができなければ、結果が伴わないということを経験上学んできた。悪い癖だと思ってみても、心のコントロールはそう簡単ではない。

自分が変わるチャンスがあれば、信じる心を身に付けたいと思っていた。

できるだろうか。10代の頃から思っていた。

そんな僕に、今から13年前、信じる心の温かさを経験させてくれた先輩たちがいる。

忘れられない出来事だ。

当時、入局5年目の僕は、2月、初任地の岡山放送局から、東京・渋谷のNHK放送センターに転勤した。その年の春から始まる新番組「ニュースウオッチ9」の立ち上げ要員として、ニュースセンターで働くことになった。アナウンス室からのニュースセンター勤務は当時男性では僕が最年少だった。

不祥事が相次いでいたNHKの改革の旗印として、信頼回復の4文字を背負った番組だった。局内から集められた優秀なディレクターや放送記者たちが結集していた。強面のデスクたちが初回の放送で特ダネで権力に斬りこもうと、シビアな取材を指揮していた。

右も左もわからず、まさに右往左往しながら準備をしていた僕の様子をみて、二人の先輩が飲みに誘ってくれた。森茂樹カメラマンと、高倉基也ディレクターだ。

数々のNHKスペシャルを手がけてきた二人の大先輩。穏やかで、ユーモアに満ちていて、優しくて、シャープな、憧れの先輩たちだった。

当時の僕は、何をやっても空回り。熱意はあるけど中身は伴わない。これだと思った取材テーマはどこか地に足のつかない空想的なものばかり。気負うばかりで焦りもあったか、周囲からみたらとても危なっかしく見えただろう。

森さんと高倉さんは、新人の教育係のように僕のことを見守ってくれていた。そんな2人が飲みながらこんな話をしてくれた。

「堀、番組っていうのは、成功して当たり前。でも、失敗した時には必ず弱いところにしわ寄せがいく。あれが良くなかった、これが良くなかった、あいつがいたせいだ、って。このグループでいうと一番弱い立場にいるのは、新人の堀だ。だから堀を批判する奴が出てくるかもしれない。でも、大丈夫だ。堀は安心して好きなことを好きなだけ全力でやってみたらいい。たとえ、番組がうまくいかなくて、失敗に終わったとしても、俺たちが必ず守ってやるから」

そして、この飲み会から2ヶ月後、先輩たちは、実際に僕のことを守ってくれた。

4月に番組はスタートしたが、僕には仕事がおりてこなかった。「お前みたいなチャラチャラしたやつに報道の現場は踏ませられない」と面と向かって言われたこともある。番組がスタートし、みんなが慌ただしく動いている中でも、僕にはなかなか仕事が与えられなかった。じっと机に座ってひたすら電話取材や企画書を書く日々が続いた。

岡山放送局を出る時に、万歳三唱で送り出してくれた同僚や地元の方々からは「番組始まったけど、なかなか出ないね?いつ出るの?」と連絡をもらうこともあった。

焦りは沸点に達して心が壊れそうだった。

事件の一報を知らせる共同通信のアナウンスが居室に響くと、「現場にいきたいです」とデスクに上申するようになった。

あまりにしつこかったのか、デスクも「行きたいなら行ってくれば?」「ネタは自分でとってこい」と、言ってくれるように。

以来、「ありがとうございます!」と、跳ねるようにデジカメを持って1人で現場に向かうようになった。

東京に赴任し2ヶ月が経ってからだろうか。他の記者が取れなかった証言の撮影に成功したり、ないないと言われた容疑者の顔写真を手に入れて戻ってきたり、ようやく取材のスタートラインに立ったという感触を得られるようになった頃、「堀も顔出しでリポートするか?」と、番組始まって以来、初めて現場取材のおよびがかかった。同行するカメラマンは、あの森先輩だった。

現場は防衛庁。鹿児島県の佐多岬沖で、超高速船が何かに衝突する事故が発生。状況の分析や事故原因について、海上自衛隊の元艦長にインタビューをするという内容だった。

初めての現場リポート。これまでの取材は資料の入手や映像取材では貢献できていたけれど、名前と顔が出る現場はこれが初めて。防衛庁の廊下で森カメラマンと動きを確認し、早速立ちリポの収録から入った。

「防衛庁にきました。なぜ事故が起きたのか?海上自衛隊の元艦長を訪ねます」という10秒にも満たない、コンパクトな内容だ。一発で撮り終わった。ささっと仕上げて、早く元艦長の話を聞きたかった。

撮影を終え、既に執務室に意識が向いていた僕に、森カメラマンがカメラのファインダーをこちらに向けながらこう言った。

「堀潤、お前自分で今の立ちリポ、ちょっと見てみ」

「あ、はい」

「どうや。この顔って、お前の中で普通の顔?それともちょっと笑い顔?」

「んーーー。。。笑ってる訳ではないですが、ちょっと嬉しそうに見えますね」

「そうか。じゃ、もう一回撮ろうか。事故のニュースやしなあ」

フェインダー内のモニターで再生された僕の表情は、嬉々として喋っていて、やはりどこか嬉しそうだった。やっと本来の仕事ができる、やってやる、そんな表情だった。

恥ずかしくて、恥ずかしくて、どうしようもなかったし、浅はかだなと、自分の未熟さにがっかりした。

もし、あのままその素材が編集室に渡り、そのまま放送されていたら。

その場で、もう帰ってよし、二度と仕事はやらせない、そんな空気になっていただろうと今でも思う。

森カメラマンは、諭す訳でもなく、怒る訳でもなく、呆れる訳でもなく、ただただ未熟な僕をファインダー越しに見守ってくれていた。

「すみません。ありがとうございます」と言って、2テイク目を撮って、元艦長のインタビューも無事に終わった。その映像を受け取って編集してくれたのは高倉ディレクターだったと思う。

放送が終わって、どんな感想をもらい、その後どんな心の葛藤があったのかは全く覚えていない。その日を境に、僕は毎日毎日、事件や事故、災害があれば北海道から沖縄までカメラを握りしめて飛び回る日々がスタートしたからだ。

一つだけ覚えているのは、森さんと高倉さんの優しい笑顔だ。

あの瞬間がなかったら、今の僕はいない。

自分の迂闊さは相変わらず変わりがないので、懐疑的なままだ。でも、人に対しては少し気持ちが変わった。そんなに捨てたもんじゃない、きっとあの人にはこんな想いがあるはずだ、想像してみよう、心を開いてみよう、頼りにしてみよう、悩みを聞いてもらおう、意見をぶつけてみよう、分厚い灰色の壁のように見えた誰かの心に、クッションが見える。ひょっとしたら受け止めてくれるのかもしれないな。

だから思う。もし僕を疑って殻にとじこもろうとする人に出会ったら、あの日の先輩たちがしてくれたように、その人をそっと見守っていたいと。そうありたいなと。

「必ず守ってやるから」って。

森さん、高倉さん。

きちんと挨拶もせずに、退職してしまったけれど、ずっと感謝しています。

忘れません。

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写真:幡野広志

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このnoteは、TOKYO MX×noteの「#君のことばに救われた」コンテストの参考作品として書いたものです。

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