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人はなぜ布教するのか?

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真のオタクは、好きな作品(漫画・DVDなど)は、同じものを3つ買うという。

それが事実かどうかは置いといて、

人は、なぜ、自分がすばらしいと思うものを「人に伝えたい」と願うのだろう?

めっちゃ素晴らしい作品だから!
この作品に出合った歓びを、まだ知らない人に伝えたいから!

オタクのそういった歓びに、私は水をさそうとは思わない。

面白い作品があったら、わたしにも教えてほしいと願うだけである。


そうじゃなくて、本当の布教。
宗教的な布教について。

人生のさまざまな課題に打ちひしがられて、疲れ、悲しんでいる友人や隣人を、助けてあげたいと思う気持ちが理解できないわけではない。

でも…それが、今世の問題であるなら、
つまり、あの世に関係する問題でないなら、
それは、現世的な解決方法で、解決の道筋を作るべきで、宗教の出る幕ではないのではないか…と思うのだ。


たとえば、国際テロ組織にさらわれた家族に、無事帰ってきてほしい…というのは、一個人でなんとかできるレベルを超えているが、かといって、宗教に救いを求める場面じゃない。

・・・ように思う。


たとえば貧困であるなら、国の経済政策を変えるべきで、
いじめの問題も、程度や規模、いじめの主体が誰かにもよるが、いじめの問題として、法律的に解決すべき問題だと思う。

変に違う方向で解決法を探し出すと、解決から遠のくからだ。


商売がうまくいかない
就職活動がうまくいかない
適職が見いだせない
結婚できない
恋愛できない
友達ができない
隣家と争いがある

など、私たちの悩みは尽きないが、どれも問題を横にズラすのではなく、現実的、現世的な対処を考えるべきだ。

ここで、「あの世」を計算にいれはじめると、「隣人を殺すしかない」という結論になりかねない。

と、思うのだ。

(問題の解決法に、気安く「あの世」を入れてはいけない。殺して解決、死んで解決というのは解決ではなく、他の人にとって新しい悩みの種が生まれただけだから)


ここまでが前提の話。


私は、鍼灸院という事業をやっている。
健康の問題を取り扱っている。

〇〇さんの、▶▼という健康問題を解消する

ことが生業である。

その健康問題は、ハッキリ言うが、10種類あったら解決できるのは3種類だけである。

残りの7種類は、「とりあえずやってみる」ことしかできない。


この世の病気で、治療法がハッキリしているのは、せいぜいその程度だからだ。

治療法がハッキリしているものでも、患者さんが言うことを聞いてくれないと治らないこともあるので、勝率はもっと低くなることもあるし、人には心という偉大な装置がついているので、プラシーボで思った以上に成果があがることもある。人は不思議である。


しかし、それでも、
・解決できる問題
・解決できない問題
があることは、顧客にあらかじめ伝える義務がある。

どんな健康問題でも解決します!というのは、医者ではなく、詐欺師である。

現代の技術水準で、「できることはできる」し、「できないことはできない」

たまに不思議なことも起こって、理屈では治らない病気が治ることもある。けど、それは鍼灸師の手柄ではない。天の配剤と、ご本人の努力の成果でしかない。

治療費をいただいて、鍼灸師はうなだれ、首をたれるのみ。


で、話を宗教に戻すが、この現代に、宗教は必要なのだろうか・・・・?

人の問題を解決する上で、宗教の占める範囲は、とても狭くなっているのではないだろうか・・・?


神のものは神に返しなさい。
カエサルのものはカエサルに返しなさい。

ということを、イエス・キリストがおっしゃっているそうだが、私は正しいと思う。そして、この正しさを推し進めると、宗教は、自分たちの仕事の幅が狭くなったことを、受け入れざる得ないというところに落ち着く。

宗教がこの世で果たさなければならない役割は、あの世とこの世をうまく折り合わせる仕事に限局されてくるのだろう、と思う。


ところが、私が非常に違和感を覚えるのが、現世利益を約束する宗教である。

現世のことは、現世的な方法で行うべきなのに、宗教の力で、現世的な幸福を得られるとしている宗教。

これはずいぶん困ったものではないのか?


以前、ある食事療法を熱心にやっていた方がいた。
結果的に、その方の悩みは、その努力に反して、解決しなかった。

ご本人は、「私のやり方が完璧ではなかったからだと思う」と、失敗を自分の努力不足、とされていた。

しかし、現代医学的に考えると、むしろ、その食事療法で治るというのは、反科学的な話なのだ。


どれほど完璧にやろうが、失敗するやり方を選んでやっているのに、その方法で成功しなかったのは、「私のせい」だというその女性。

この話を聞いたことが、今回、この記事を書く、動機になった。


ある宗教の布教をしてくる人は、「この宗教を信じれば、現世的な問題は解決できますよ」と説く。

しかし、それは、どれくらいその宗教を信じ、実践したら、という話なのだろうか?

その宗教を信じて幸せになれなかったら、信仰心が足りなかったからだという結論になるのなら?


商売は、魚を欲しがっている人に、魚のとり方を教えるか、魚そのものを売るか、で成り立つ。

・魚を売る
・魚の釣り方を教える

どちらか、または両方である。

そして、魚の釣り方を教える場合、1日かけて1000円で教えるが、それでマスターできなかったら、教え方が悪いかったのか、竿が悪かったのかと、客も、商売人も考える。

とくに商売人は真剣だ。「自分のプロダクトの問題点」を探すし、1000円で一日で教えるというのが無理だと悟ったら、1週間コースで完璧にマスターするまで徹底的に教える商品を一万円で売るなど工夫する。

才能のない人に釣りを教えるのは無理とあきらめるなら、商売をたたむか、「中級者以上」にだけ教えるとか、顧客を絞ったりする。

でも、間違っても「顧客のせい」ではない。
売った商品でうまくいかなかったら、顧客が悪いのではなく、商売の、商品の、プロダクトの、サービスの側が悪いのだ。

料金、コンセプト、カリキュラム、販売マニュアル、集客方法、顧客の絞り方など改善の余地は常に無限にあるのだから、それでいいのだ。


現世利益を謳っている宗教は、なんでもかんでも売ります!といいながら、その結果については、「神様次第」か「あなたの努力次第ですよ」

神様という責任を問えない主体か、本人のせい。

ねぇ、これって、
「神様を売っている」人間、神の代理人か、神の販売人の罪は問えないの?


結果が出なかったとき、神様を恨んでも仕方がないから、信じた人が恨むのは、必然「自分自身」しかいない。

「騙された私がばかだった」か「私の信仰心が足りなかったから」

これでは、宗教というより、不幸製造機である。


私自身は、宗教に価値がないと考えているわけではない。

だけど、宗教というものが、現世利益を謳っているものに限らず、宗教全般の話になるが、宗教は何の、どういう役目を果たすのか? 宗教者側が再定義する段階に来ていると思う。

「わたしたちの教えは、深すぎて下々の理解が及ばないのです」

というのなら、それはそれで、一つの貫き方だと思う。でも尊敬はできない。それは趣味の世界だから。


「良いものだから人にも教えたい」という気持ちには、自分の純粋な感動がある。

でも実効性、、、役に立つか役に立たないかという面に限定して宗教を考えると、へたに宗教を頼るより、良心的な商売人を頼る方が、マシだと思える。


商売の世界は、競争が厳しい。サービス、商品の品質は、厳しく吟味される。だから商売は常に「磨かれ続ける」

しょうもない商品は、時間がかかったとしても、いずれ駆逐されるのだから。

ところが宗教はそうではない。商売ほど厳しい競争にさらされてはいない。厳しい批判の目を向けられていない。

また、宗派には長い歴史と伝統があり、言ってしまえば巨大企業だ。一人や二人、悪質な従業員がいたとしても、見逃されてしまう。


私たちは、この世を楽園にする義務を持っている、と私は思っている。

ビジネスは、この世を楽園にするために役に立つことだ。

一方、宗教は、この世を楽園にする役に立っているだろうか?
今後も、役に立つもので、あり続けられるだろうか?

私は今後、宗教に厳しい批判の目を向ける人でありたいと思う。

神のものは神に。
カエサルのものはカエサルに。




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