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高齢ヨゴレ系ドラァグクィーン=パフォーマー=「びっぐまま」爆誕w

50過ぎでパフォーマンス?

ピンクベアがステージに立ち続けている強い気持ちを話してくれたことがある。中身は言わんし、別に自分は新宿二丁目を必要ともしていない。だから、どこの箱がどうなろうがその店がつぶれようが痛くもかゆくもない。
たとえハッテン場やサウナが廃業しても困らない。十分に遊ばせてもらった。どうもありがとう、である。だけど、僕や僕らは必死に自分たちの居場所を作ろうともし、護ろうともしてきた。そのためのメッセージ活動はなにも講演会や執筆での論戦だけではない。たとえ自虐や露悪であろうとも演説や押しつけではない、だけどメッセージを雄弁に語る手段・・
それがステージパフォーマンスである、ということを僕は学んだ。
そう思い始めたのは、やはり第二回目の東京GAYパレードに参加した時に、自分の中にあったバイアスや思い込みのうろこが何枚もはがれていった。
そうしたら、別に自分が女装をすることも、どんな格好をしようが構わないという風になった。

びっぐまま爆誕(自爆)2012年8月@群馬県

「Climb Every Mountain」に惹きよせられた

古典中の古典と言われるパフォーマンスが「Climb Every Mountain」であると教えてくれたのはベアリーヌドピンクさん(故・長谷川博史さんのステージネーム)だった。ブランクはあったにせよ、まだ歌えるうちに精一杯パフォーマンスをする必要があると思わせてもらえたのは、東京プライドマーチの第二回に僕はジャンププラス立ち上げ早々の段階で長谷川さんと2人パレードを歩いた。目からうろこだった。沿道のオープンカフェや美容院、アパレルショップ、レストラン、ファッションビルが立ち並ぶ表参道のあちこちの店の窓に「仲間たち」が手を振ったり合図をしてくれているのが沢山目に入った。さらには雑居ビルの屋上や階段ホールから手を振ってくれる人。パレードを都バスで追いかけて窓から声かける人、一緒に歩道を伴走してくれる人、裏道を計算しつくして歩道橋下や横断歩道通貨の際に必ずというぐらい現れて応援してくれる人たち、ありとあらゆる「手」で応援してくれる人たちが「行列」以外に居たのを目撃もし、元気づけられた。「エンパワメント」を実感できた。
だから、自分の属性以外への橋渡しをするメッセージ活動となる場で、自分はこのパフォーマンスをやってきた。
むずかしいのは、レインボーの人たちでさえドラァグクィーンをしらない人たちがある。そんなことよりセックスと酒とドラッグにすべての生き方と快楽を埋没させないと失われた青春は取り返せない、親や家族や会社や法律からの抑圧からやっと解放されたのに、という人たちの中でだからこそのメッセージだというわけだから。あらゆる面でもエネルギーが必要なわけだ。
でも、やっててよかった。間違いではなかったと思えるのは、タネをまいたことで芽が出て根がはる実感がもてることだ。

参考

プライドイベントでのパフォーマンス(アメリカの事例:YouTube)



すべての山に登れ Climb Ev'ry Mountain 歌詞の意味・和訳


「サウンド・オブ・ミュージック」のお芝居そのものが、ナチスのオーストリア占領のあおりをうけて、亡命を決意するトラップ大佐の物語が一方にあり、彼の家族との愛に目覚め、大佐との恋に落ち、キリスト教的抑圧の象徴とも言うべき修道院の落ちこぼれ修道尼マリアが、本当の自分を求めて人間の愛と自由を再び手にするよう院長に促される。その決定的な場面で、試練を恐れるな、すべての山を登り、すべての谷や澤をめぐり虹の橋の向こうに貴方が思い描く夢がきっとあるにちがいないと歌い上げる。
単に歩き経験せよという歌ではない。
ナチス侵攻と抑圧で人々の手足をもがれようという決定的な瞬間でもある。
どんな苦難が待っているのか命があるのかもわからない。だけど、信じるものたちと共に夢を実現するまで、見いだすまで、山を登り続けなさい、という力強い励ましの歌である。
GAY IS SYN! というカトリックとキリスト教社会の抑圧があるLGBTQSの人間精神の自由を求める言葉と声を雄弁に代用できる、まさに借り物こしらえものの舞台でやり通す。あえて「女装」で舞台で歌い踊りメッセージを運ぶ意義と意味はそこにある。露悪であり、女性達から受けた屈辱恥辱があればこその敢えて演じるミソジニーがドラァグの「露悪」でもある。
この逆説と反歌の精神がわからないフェミニストはフェミニスト失格なのだ。もちろん、歴史をたどればカウンター行動としてのGAYリブがあるわけだから、当然ミソジニーに端を発するだろう。ただ、歴史場面を見れば、男中心・男優位社会の中で男の気をひく生き物としての女とオカマだという意外ではなく、男を奪い合うための生き物として市場争いを演じるのが正直な所であったろう。つまり自分たちの性本能の安全を脅かす存在としてGAYが女性を脅かすことなど大多数が生物としての男女を形作る以上は、絶対にできないわけだし、当時は「ノーマル」「ストレート」という表現で男性がチョイスする生き方としてしかジェンダーもせくしゅありてぃも表現されていなかったようなものである。

最初から勝負にならないのが女性の立ち位置dと優位性でもあった。
だからこそのドラァグの登場でもあったわけだ。

参考資料2

人気のミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」劇中歌

https://www.worldfolksong.com/popular/musical/climb-every-mountain.html


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