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世界に輪郭を溶かしたい

ある雨の週末、カフェで雑談しているとき。
私はある人を「ピュア」と表現した。
その場で少し違和感を覚えたが、その正体を掴めず、おしゃべりに興じてカフェを出た。

そのまま数日忘れていたが、今日厚揚げの豚肉巻きをフライパンで転がし、タレを流し込んだところで「無知」という言葉が浮かんだ。

あ、あのとき私は、「ピュア」という言葉に「無知」という意味を含ませた。
そうしながら、悪口に聞こえないように耳障りのいい言葉を使ったのか。

ざらりとした。
その目線を持つ自覚があったから。
「知らない」と言われて、「知らないなら考えてよ」と苛立った瞬間を思い出したから。

とはいえ、考えるか否か、意志の有無は個人の自由だ。
他者が「考えてよ」と強いるのは、(義務や仕事は一旦考えないとすると)ちょっぴりおこがましい気がする。

私にとって、話すことと書くことは、考えることに近い。気持ちや考えに寄り添う言葉や表現を見つけられると、はじめてコンタクトをつけた時のような感覚がある。

眼鏡と違って、視界全体が数段クリアに見える感覚。それに至るまでを、今までの思索の層が助けてくれる。

引っ掛かりのある表現、気になったこと、眠らせていた物事がこちらを振り向いて、目が合ったり肩が触れたりする。
それが、楽しい。

自分の輪郭が丸みを帯びて背景に少し溶けるような、世界と少し仲良くなれるような、そんな気がする。

楽しいから、私はどう思うか、何を感じるか、立ち止まって味わう。
言葉を紡ぐ。それを繰り返す。

自分で言葉や表現を見つけられたときと同じくらい、音楽でも映画でも本でもなんでも、他者の表現に共感すると、ぐんと豊かな気持ちになる。

言ってくれてありがとう、私もそう思ってた。
え、あなたにはこの景色がそう見えるの。
そんな些細で大切な驚きがある。

だから、考えることを途中で諦められたら、悲しくなるのかもしれない。
だから、考える人が好きなのかもしれない。

「考えてよ」は身勝手かもしれないけど、自分の望みは自覚していよう。
「ねえ、どう思う?」くらいは、小出しにしながら。

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