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この世界をこの自分で、たまに震えながら生きている

酷暑。遠くに蜃気楼を見ながら車を運転しつつ「水撒きをすれば少しは気温が下がるというし、広い範囲にバアっと水が撒かれるような何かがあれば良いのに…」としばらく真剣にその方法を考えてから、ふと、それって雨ではないかと気付いた。

私って自分が思っているより阿保なのだと最近ようやく知った。賢い人間だと思っていたわけではないが、それでも高く見積もっていたようだ。

先日、息子のトイトレについて、母と話していたら「夏はすっぽんぽんでいてもいいから、トイトレにちょうど良い」というようなことを言われ「そうそう、この夏は頑張る予定」と言おうとして、絶句した。もう7月後半だ。夏が3分の1くらい終わりそうだ。いつ、いつだ、いつ夏は私の横を過ぎて行った。いや、スイカも桃もとうもろこしも食べたし、夏フェスも話だけ聞いたし、なにより随分前から暑いから、夏なことには気付いていたはずなのだが。私と世界の間で時空の隔たりがあるのではないか。そうでないとおかしいくらい、脳が月日のスピードに置いて行かれている。

社会から離れ自宅で過ごしているのでぼんやりしているのではないか、育児で疲れているのではないかと自分を慰めようとしたが、思い返せば私は随分小さい頃からぼんやりしていた。
5歳のころの大ミスを今でもよく思い出す。

そのころ通っていた幼稚園では、朝の園バスに乗る際に、先生に自分の名前を言ってから乗るというルールがあった。当然わたしも毎朝「fum田fum子です」というように名前を言ってから乗っていた。
ところがある朝、どれだけぼーっとしていたのか、他人の名前を言ってしまったのである。
私の前に並んでいたのは「かわはらりゅうじ」くんで、もちろん「かわはらりゅうじです」と名乗って乗車していた。それをうっすら聴きながら自分の番を迎え、私まで「かわはらりゅうじです」と言ってしまった。わたしはかわはらりゅうじではない。先生と一緒に「えっ」と言い、その後は覚えていない。
それから私は自分の名前を名乗るときも間違っていないか毎回じゅうぶんに注意するようになった。なんと、三十代半ばになった今でも。一度頭の中で「私の名前って…」と確認しないと、間違えそうなのだ。

確認しないと不安なことは他にもある。
出かけるときにも「ズボン履いてるか…?」と不安になる。そもそも履いているか、それはパジャマではないか。
これは多分、ランドセルを忘れて登校しかけた記憶と、冬場に制服のブレザーを着るのを忘れてコートを着て登校した記憶があるからかも…と言いたかったが、単に自分の感覚や意識に自信が無いのだと思う。いま、服を着ているか、目視で確認しないと自信が無い。

あるとき、トイレで用を足しながら「あれ?」と思った。
「ここは本当に用を足す場所だったか?」
なんか無意識に出してるけど、ここに出してよかったのだったか…。もしかして私だけなのでは。確認しようが無いことと、「確認したら心配されそうだな」と思ったときにやっとこれで大丈夫なのだと思えた。

阿保であることと話はズレていくが、この、多分すこし度を超えた「常識を疑え」は、不意に他のパターンも新出する。
小さいことで言うと「これって本当にパジャマって名前だったか」とか。
「咀嚼ってこうだったか」とか。
「息って吸って吐く以外に無かったか」「バカボンが言ってる太陽が登る方角は間違っているということであっているのか」「寝てるときって生きてるのか」とか。

前にも書いたかもしれないが、小学生のころは母の存在を疑ったことがある。
母は当時専業主婦だったので、私が登校するときは玄関で見送ってくれ、帰宅すれば家にいた。
ある日の下校中にふと思ったのだ。
「朝の母と、これから会う母は、本当に同じ人物なのだろうか」
自分が学校に行ってる間の母を、自分は知らないという事実にふと気付き、その考えに及んだのだった。
なぜ今まで同一人物だと信じ込んでいたのか、それを当然と思っていた自分自身に疑問すら感じた。

帰宅し、どきどきしながら母の顔を見る。いつものように「おかえり」と言い、その日は新聞を読んでいた。
疑惑が生まれたものの、では例えば違う人物だったらどうすれば良いのか。つまり少なくとも母は2人以上いることになるが、朝のシフトの母は今どこにいるのか…。そしてこれはどうやって事実を突き詰めたら良いのか。
なんにせよ早く解明したほうがよい気がして、ひとり緊迫していると、いつもと様子の違う私に気付いた母が新聞から顔を上げ、「なに?」と聞いた。
心は震えている。決死の思いで「さては…偽物だな?」と言うと「は?」と笑われ、母はまた新聞に目線を戻し、終わった。
ま、そうだよね、と安心したけど、今でもたまに「いや、もしかしたら…」と思うときがある。
この世界は広過ぎる。気になるものが多過ぎる。私がこの世界と自分を信じるまでにはあと何年も何十年もかかる。

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