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好きってなんだろう

大学の授業で自分の好きについて考える機会があった。好きな文章、なりたいと思う人の文章を選んでみてっていわれた。

好きってなんだろうって思う。時々どこからが好きなのかわからなくなる。友達、恋人、家族みんな好きなはず。でも、時々好きじゃなくなる。人がカレーを毎日食べると飽きてしまうように、好意に疲れてしまう時がある。

私はずっとずっと昔から空っぽだったのかもしれない。高校生の時、適応障害として診断された。その中でも私は過剰適応という部類のものらしい。知らない人のために説明すると過剰適応とは誰か、環境、場所、空気過剰に合わせすぎてしまうことを言う。

私はずっと空白。あなたの空欄でしかない。医者に過剰適応と言われた時、なんて言うか自分のしょうもなさに絶望したことをはっきりと脳裏に焼き付いている。そういえば、いつも誰かに合わせている自分がいることに気付いた。誰かの理想になりたかった。友達、彼氏、家族、Twitter、全部全部違う格好をした。誰かに愛されたくて、好きって言われたくて。その時に書いた文章(ポエムに近い)が残っていた。小っ恥ずかしいものだが、誰かのためになるかもしれないのでおいておく。

厭世

現在進行形で生きている意味がない。誰かに消費される為に生きて、ある程度の生活費を貰って生きている。言葉も服装もある程度着飾る。これは全部君のため。今日も君のために生きる。私が死んだ時、君が後悔するように、理想の私になる。失った時、悲しみにあけくれて3日間くらい飯が喉に通らない君がみたい。その後はきちんと社会復帰して欲しい。ちゃんと眠ってちゃんと食べて仕事に行っていつも通り。私を忘れていく君がみたい。そのために今日も理想の私を形取る。もっともっと傲慢で押し付けがましい君がみたい。

このとおり、私は誰かの空欄でしかない。でも、私も傲慢なのだ。誰かの空欄であることに幸福を覚えてしまっているからだ。だから、お互いに足を引っ張りあおうではないか。それがかけがえのないトラウマになるまで、私はそれを止めるつもりはない。

空欄であるには共感力が大事だ。常に相手のことを考える。どういうことが相手に好かれるか、常に考える。自分がされて不快なことは相手にはしない。そうすれば、自分も相手も堕ちていく。その能力をちょっとだけ絵にも使用してる。私の絵は共感力が高いとよく絵師仲間から言われる。「これかわいいよね?」って言われている気持ちになるらしい。嬉しい。


好意を向けられるのも好意を考えることも疲れる。好き?って尋ねる感情を表すのは得意なはずなのに、好き!って言う能力は無くしてしまった。自業自得なのかもしれない。自分が捨ててしまったからバチが当たってしまったんだろう。

時間はかかるかもしれないけど、ちょっとずつリストを埋めていこうと思う。ゆっくりゆっくり自分を取り戻したい。
https://youtu.be/pdkXf2Ztunk?si=kAPIn_AKLhfM9tbs


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