写真に残せないひとたちへ

『先生はね、あなたたちの担任になれて幸せだったよ。』



小中高と、自分が学生であった頃、別れの季節に耳にした台詞だった。


当時の私にはその言葉の意味がよくわからなかった。


今日までクラス総出で先生の手を焼かせてきたのに?

先生は、クラスの子の対応に悩んで私たちに涙を見せたのに?

散々注意をさせたし、言うことも聞かなかったし、苦手な教科は少しも分からないままで終わってしまいそうなのに?



そんな疑問が頭の中でぐるぐるしていた。



幸せという感情は、楽しいという気持ちの延長線上にあるものとばかりずっと思い込んでいた。


私が、学童保育の先生という立場で節目を迎える今日この日が来るまでは。


正直、今日まで三年間、小学校の門をくぐるのが嫌だと思う日もあった。

部屋の扉を目前に帰りたいとぼやいた日も多々あったし、子どもたちの言動に大人げなく腹が立ったことも傷ついたこともあった。


それなのに今、私はやっと解放されるんだ、とは少しも思わない。


むしろ、私が彼らの成長を見届けられるのはここまでなんだという寂しいような、やり切ったようなごちゃまぜな感情がここにある。


今なら分かる。先生が言ってた幸せはこれだって。


私はずっと、勘違いしていた。皆トラブルなく、成績優秀で、授業態度もはなまるであることが、先生の求めるものなのかなあ、なんて。

そうじゃなかった。



三年前、小柄な一年生が何度も兄と喧嘩になって暴れては止めに入ったことを思い出す。


その子は今年度からはもう「ただいま。」と引き戸を開けることはないけれど、穏やかで年下の面倒を見れる少年になって学童を巣立った。


一年前、毎日のように近くにいる児童のことも先生のことも蹴ったり殴ったりしては注意を受けていた子が、今年は隣に座る新一年生にそっとルールを教えている。


じっと座って宿題ができなかった子たちも、今では時間までに終わらせて、次やるべきことに取り掛かれるようになっている。


もちろん今でも手足が出る子は変わらずに出るし、宿題だって毎日完璧にこなせているわけじゃない。

それでも、今まで目に留まらなかったそんな一面が、垣間見えたとき、心がきゅっと温かくなる。思わず笑顔になれる。


「あなたたちの成長が見られて嬉しい。」なんて、嘘だ。何も変わってないのに。ってずっと思っていた。


先生の言う言葉の規模がその時の自分にとっては小さすぎて、分からなかっただけだった。



私は別に、この三年間を教師として働いたわけじゃない。

だから先生が私たちに贈った言葉をどんなつもりで言ったのかはわからないままだ。

だけどやっと少し分かった気がする。

あの時先生が抱いていた感情に今まで持った中で一番近い感情を今手にしている気がする。


だから彼らには直接伝えた。


私はあなたたちと出会えて、幸せです。



写真にも動画にも留められなかった、

きっといつかお互いに声も顔もあるいは名前も思い出せなくなってしまう、

太陽みたいなこどもたちと。




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