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人間ピラミッドを作ったのは誰か

働かないといけないのに職場が辛い……
離婚したいのに離婚できない……
などの自己矛盾を抱き続けると、人は気が狂う。

気が狂ってるといえば僕の歴代体育教師だ。

彼らは「やる気がないなら帰れ」と叫んでおきながら本当に帰るとキレるなど、ずっと支離滅裂な言動を繰り返していた。

嗜好の部分にも歪みが見え、小児を積んでピラミッドを作ることに喜びを感じる愉快犯的な一面もあった。

恐らくこれは多くの人々の間で共有された傾向であり、「子供が運動嫌いになるのは体育教師のせい」という主張もたまに目にする。

運動嫌いの僕としては賛成したいところだが、この主張にはどうも違和感を覚える。

そもそも「運動嫌いは体育教師の責任」を謳う人々の間には、「運動は本来楽しい」という前提がある。
運動はみんなが好きになるはずのものだから、アンチが生じた時点でその楽しさを伝えられないヤツが悪いとでも言いたいのだろう。

だが、「みんなが好きになるはずのもの」なんてこの世に存在するのか?

自分が運動を嫌う理由は、教師がどうこうできる問題じゃないものがほとんどだ。

例えば、汗をかくから。
例えば、危険だから。
例えば、外に出るから。

なんて元も子も身もふたも何もかもない主張だろう。
しかし、これで体育教師の指導には限界があることがわかったと思う。

「順位をつけられるのがイヤ」とか「教師が怖すぎるのがイヤ」は副次的な不幸だ。
運動そのものにも負の側面があることは否めない。

「みんなが好きになるはずのもの」なんて存在しないのだから、アンチがいても無視すればいい。
それ自体は指導者の罪ではない。




しかし、これが無視できないのが教師の宿命だ。

体育教師は常に「運動の楽しさを教えなければならない」というプレッシャーと「全ての生徒が運動の楽しさを理解できるわけではない」という事実の板挟みを食らっている。

常に矛盾を抱えたまま生きていると人の精神は壊れてしまう。




そうだ。




だから気が狂って小児を積み始めるのだ。

ムカデ人間の医者は結合双生児の分離手術を繰り返すうちに人を繋げることへの願望を増していった。
同様に、生徒に対する相反した感情が体育教師にピラミッドを作らせていたのではないか。
物理的に生徒を統一することで自己矛盾を解消した”気になっていた”のではないか。


世間はいつからか人間ピラミッドに否定的な感情を抱くようになった。
しかし、こうしたクレームで教師を押さえつけることは根本的な解決にはならない。
反動でよりサイコな組体操を編み出させてしまう可能性すらある。

我々に必要なのは、運動の負の側面を自覚し、その責任を教師に押し付けないことなのではないか。




二度と人間ピラミッドが作られない社会を、今日も部屋の中から祈っている。














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