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しょうらいのゆめ

ぼくのしょうらいのゆめは、ドタキャンをすることです。


ドタキャンは、よい行ないではありません。

でもぼくは、ドタキャンができる大人になりたいです。


ぼくは、あるお友だち7人と、1ヶ月くらい前から、おゆうぎ会のれんしゅうをする約束をしていました。

でも、そのうちの2人にドタキャンされました。

1人のお友だちは、「バイトが入った」と言っていました。


バイトの方から入ってくることはありません。

約束は1ヶ月前からしていました。そんなに前からシフトを出さないといけないバイトなんてないでしょう。

おゆうぎ会のれんしゅうとバイトを天びんにかけて、バイトの方が大切だと思ったから、バイトを「入れた」のでしょう。

「バイトが入った」ということばは、それをさもバイトがわるいかのように言って自分を正当化しようとするきもちわるいことばだなあ、と思いました。

ものごとを「ことわる」というのは、ものごとのゆう先じゅんいをハッキリさせる行動です。


もう1人のお友だちは、ドタキャンの理由すら言いませんでした。

「ごめん!行けなくなった!」としか言いませんでした。

「行ける」と言っていたのに行けないということは、本来ありえないことです。

ドタキャンはそのありえないことで、人にめいわくをかけてしまいます。

ならば、ドタキャンした人は、その「ありえないこと」がありえてしまった理由をせつ明するくらいのせきにんはあるのではないかと思います。


こんなに書くとぼくがドタキャンをする人におこっているようです。
しかし、それでも、ぼくは、ドタキャンをする人にあこがれています。

なぜなら、今のぼくはドタキャンをするほどいそがしくないからです。

ドタキャンをする人は、さぞたくさんの予定におわれていて、とてもじゅう実した毎日を送っているのだろうと思います。

一方でぼくは、大してお友だちもおらず、バイトをやりまくっているわけでもなく、何かのべんきょうをしているわけでもないので、いつも約束をまもってしまいます。

大きくなったら、やりがいのあるおしごとを見つけて、その予定におわれるじゅう実した毎日をすごしたいと思っています。


ドタキャンをする大人になりたい理由はもう1つあります。

ドタキャンをする人は、ざいあく感をふつうの人より感じにくい心をもっているからです。

先ほどのバイトの例でも、もしかしたらほんとうにお友だちは店長さんから「人が足りないんだ。たすけてくれ。」と言われたのかもしれません。

でも、もしぼくがお友だちだったら、何があっても先に決まっていた予定をゆう先してしまうと思います。
なぜなら、お友だちにめいわくがかかってしまって申しわけないからです。

もちろん店長さんにも申しわけないですが、「先に決まっていた予定がある」というろんり的にせつ明できる理由があるので、やはりお友だちとの予定をゆう先すべきだろうと考えます。

さっきぼくは、「予定におわれる大人になりたい」といいました。
しかし、同時にドタキャンをできるほどのじゅうなん性をもっていないと、ただいそがしいだけで毎日を消もうする、ボロぞうきんのような大人になってしまいます。

その「じゅうなん性」のもとは、「ざいあく感の感じにくさ」にあると思います。

ぼくは、ドタキャンができるくらいの予定と、ドタキャンができるくらいの心を両立させて、じゅう実と自由をかねそなえた生活を送りたいです。


以上でぼくのしょうらいのゆめの発ぴょうをおわります。

ありがとうございました。





先生「とても斬新ですね!!!!!!
100点満点です!!!!!!!」



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