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嫌いな母ですが、介護はします

【母が嫌い】

私は母が嫌いだ。
それを明確に自覚したのは、彼女を介護し始めてからだ。
母の人格自体が私には受け入れがたいことは、これまでの50年以上にわたる経験則で理解していたはず。ところが、介護という密な接触によって、嫌いだという感情をはっきりと認識させられたのだった。

私にとって母は、接していて楽しい人ではない。自分のことを話すばかりで、人の話はまったく聞かない。自分の考えに間違いはなく、誤った考えをするのはあくまでも他人。あらゆることが自分中心で、自分のためにしか行動しない。他人の話に共感したり気持ちを理解したりすることはなく、話題にのぼる些末なキーワードを拾っては自分の話にことごとくすり替えてしまう。それらも自慢にしか、私には聞こえない。

例えば、孫が留学した話になると、
「そう、留学してきたの。サンフランシスコに? おばあちゃんはね、テキサスのオースチンに2年も暮らしていたのよ。あの頃のアメリカは本当に豊かで、素晴らしかったわ~」
と、孫の体験談を聞くのではなく自分の経験を語り出す。
孫の仕事先が池袋だと知ると、
「あら、池袋に通勤しているのね。おばあちゃんは茗荷谷の大学に通っていたから、池袋では電車を乗り換えていたけれど、今はずいぶんと変わったでしょうねぇ。わたしは生物化学が専門だから、文科の人とは違って研究ばかりの学生生活だった。化学を知っている人には、そうそう出会わないわね」
と、必ず自分の大学自慢に変わる。

さらに、彼女は独りよがりで傲慢。自分の思うようにいかなかったり、他人が失敗して被害が自分に及んだりすると必ずヒステリーを起こす。母によるヒステリー被害数を数えたらきりがない。

私が小学4年生だったとき。母が煮豚を料理中で、火にかけたられた鍋が焦げているのに気づいた私は、火を止めて肉の塊の入った鍋に水を差した。彼女はどこかから戻ってきてそれを見た途端、すさまじい勢いで叫んだのだ。
「誰⁈ この鍋に水を入れたのは!」
「私が入れたよ、焦げていたから」
「なんで水なんか入れるのよ! せっかくの料理を台無しにしてくれて! もう、いやになった! もう、知らない!」
水を差してはいけない理由が、小4の私にはわからなかった(料理をする今でも、私には水を差してはいけない理由がわからない)。それを考慮に入れることはせず、一方的に私を責め立てた。

それ以来、私は彼女の手伝いをしなくなった。良かれと思ってやったのに、彼女から罵られてひどく傷ついたからだ。
この煮豚事件は、あんたに余計なことをされて料理を台無しにされたと、その後何十年も言われ続け、私はそのたびに古傷をえぐられ、心底いやな思いをしてきた。

【長子だから】

そんなにいやな親と、どうして同居したのか?
理由は「長子だから」のひとことに尽きる。

私の両親との同居を発案したのは、夫だった。
25歳で結婚をして、新居は世田谷区にある夫の実家近くにマンションを借りた。世田谷で暮らし始めて3年が経とうとしていた頃、義父が家を買ったらどうかと言い出した。
夫には、早くに亡くなった義母から相続した財があるらしく、マンションを買う方向で動き始め、数物件を見て回ってみたもののこれというものに出合えなかった時点で、夫が私の両親と共有で横浜に二世帯住宅を建てようと言った。

私は、ふたり姉妹の姉だ。親の最期は長子の私が見るのだとあたりまえに思っており、どうせそうなるなら東京から通うより、幼少から暮らし慣れた横浜で同居したほうが便利だろうと、夫の同居案に賛成したのだった。捕らぬ狸の皮算用をして、見事にドツボった。同居して初めて、主婦としてのやり方の違いで、私は母にいら立つことがとにかく増えた。

何よりいら立ったのは、ものの多さだ。
何から何まで取っておくのは、戦前に育った世代の常なのは承知している。フライパンが油まみれになり真っ黒になっても使い続ける、鍋の取っ手がコンロの火で溶けしまっても買い替えない。プリンを食べ終えたら、そのカップは捨てずにコップ代わりに使う。そして、取っておく数量に際限がなかった。

数の多さで何より閉口したのが、水道水を詰めて再利用されていたC.C.レモンのペットボトルだ。父が毎日のようにC.C.レモンを買ってきては飲むので、空きボトルがもったいないから災害用の飲料水としてストックし始めたのだろうが、キッチンの天板はC.C.レモンで埋め尽くされて異様な光景が広がっていた。

それでも、同居解消に至らなかったのは、かかわりをいっさい持たずに生活ができていたからだ。一つ屋根の下ではあったが、1階と2階の完全二世帯住宅で、両親の居住スペースである1階を意図的に訪れなければ、何日も言葉を交わさずに顔さえ合わさずに暮らすことができた。

ただ子供のことは、文句を言うことなくよく預かってくれた。日々の買い物時はもちろん、上の息子の幼稚園の送り迎え時には下の娘を両親に預けることができたし、子育てを助けてもらった負い目もあって、介護を投げ出さずにすんでいるのだとは思う。

加えて、長子の役割を果たさなければいけないという義務感だ。嫌いな親の介護をしなければならない状況にこれほど苦しめられているにもかかわらず、私は長子であることを放棄できないでいる。

【これ認知症だ!】

2018(平成30)年3月30日。その日の朝、父が動かなくなった。
夫からそれを告げられて、私は階下の居間へ行った。父は、黒い大きな電動式ソファの上に丸くなっており、起きられないと言った。母にどうしたのか聞くと、昨日は食事をいっさい取れておらず、一昨日には吐いたという。

すぐに夫に車を出してもらって近所のクリニックまで連れて行き、私が付き添った。医師は父を診察すると総合病院への入院をすすめ、救急車の手配までしてくれた。
救急車で運ばれた先で診てくれた内科医によれば、胃腸がまったく動いていないそうで、一昨日に嘔吐した旨を伝えると「誤嚥性肺炎」と診断された。

夕方ようやく帰宅でき、父の入院を母に告げると、「じゃあ、これから病院に行くのね?」と母は言った。数秒前に入院したと伝えたのに、彼女の短期記憶はなんと不具合を起こしていたのだ。
「うわっ、これ認知症だ!」
胸の中に、ピキンッと鋭い痛みが走ったのを覚えている。
私はすぐに母が眼科にかかっていた総合病院に電話をし、神経内科の診療予約を取った。

4月中旬、神経内科を受診。長谷川式簡易知能評価スケールでは、100から7を引く計算はできたものの、言われた3つの言葉は覚えておらず、野菜は3つしか出てこず、21点以上で正常と診断されるところが18点だった。加えて脳のCT検査で海馬の萎縮が見られたため、アルツハイマー型認知症との診断。私もCT画像を見たが、左右の海馬で大きさが異なっており、一方はもう一方の半分の大きさしかなかった。

そこから私は、母のすべてに付き添わなければならず、彼女のあらゆる言動や行為を間近で体感することになるのだが、ことを経るたびに嫌悪感が強まるだけだった。

在宅介護が始まって1年数か月経った2019年の梅雨どき。彼女は転んで腰を打ったらしく、第一腰椎を圧迫骨折した。打ったらしく……と書いたのは、転んだ現場を見ていたわけではないからだ。2階のキッチンで夕食の準備中だったときに、階下でドスンを音がして母が転んだことは容易に想像できたが、手が汚れていたのもあり娘に見てきて欲しいと私は頼んだ。
母は幼少時のケガがもとで、右足の脛から足先にかけて奇形がある。歩行に支障はないが、足首が動かないために転ぶと1人で立ち上がるのはむずかしい。
案の定、母は横向きに倒れており、娘が手を貸して立ち上がらせたとのことだった。

転んだことを、認知症発症以降往診をお願いしている母のかかりつけ医に話すと、レントゲンを撮って診てもらったほうがいいと紹介状を書いてくれはしたが、そのせいで総合病院の整形外科に母を連れて行くはめになった。
その総合病院での受診は神経内科以来で、さほどで込んでいなかった神経内科に比べると整形外科は見るからに患者数が多い。待合室の20客以上もある3人がけのソファは老人たちで埋め尽くされており、予約時間から2時間経っても呼ばれない。

病院では車いすを借りたが、母は腰の痛さから車いすに長い時間座っていられず、よろよろと立ち上がって手すりを頼りに廊下を右に左に歩いたり、疲れると車いすに座ったりを繰り返している。しまいには「まだなの? もうがまんできない!」と言って、空いた3人がけのソファに寝転がってしまった。

それを言いたいのは私のほうだ。誰のせいでこんなに待たされているのさ!と思うと、無性に腹が立った。私の時間を返してくれよと、心の底で叫んでいた。私の時給は1600円だから、2時間で3200円。母から3200円もらってやる!と。

3時間以上待たされた末の診察で、背骨のレントゲンを撮りましょうとなり、放射線科の検査技師に車いすを押されて母は検査室に消えていった。3時間ぶりに彼女から解放された私は、廊下の待合用ベンチにくたびれ果てて腰を下ろした。その私の疲労に追討ちをかけたのは、彼女のとんでもない叫び声だった。

「いっったっぁあああーーーーーい!!! ぎぃやぁあああーーー!!!」
「〇×〇×〇×〇×〇×〇×」(検査技師の声)
「いたっいたあっ! ふんっぎぃやぁああーーーー! キょオーーー!!」
「□▽×□▽×□▽×□▽×」(検査技師の声)

こうしたやり取りが幾度か聞こえた後、検査室のドアが開き、
「では、このファイルを持って整形外科にもどってくださいね」
と、検査技師は何事もなかったかのように、母を私に引き継いだ。
私も、何事もなかったようにファイルを受け取ったが、この出来事から彼女がおぞましい存在となったのはまちがいない。

整形外科に戻り、レントゲン画像の診断を受けている最中に、私の記憶に残った出来事がもうひとつあった。
「ああ、第一腰椎がつぶれています。骨の内部がスカスカに…」
と、医師が言うのにかぶせて、
「生物化学が専門なものですから、カルシウム摂取には気をつけてきました」
と、母が言ったのだ。
「そうは言っても、残念ながら、内部はスカスカでよい骨ではありませんのでね。ちょっと転んだだけで腰の骨がつぶれてしまったでしょ」
医師の言葉を聞いている彼女の丸まった背中に、ざまあねぇな、認知症になっても自慢気質は変わらないのだなと、その情景はあきれかえるほど滑稽だった。

【被害妄想のあらし】

圧迫骨折からの数か月は最悪な状態だった。
骨折したことなど覚えていない母にとっては、腰の痛みだけが怒りの対象になる。そのために、昼夜かまわずドン!ドン!ドン!と杖の先で床をたたきつける。痛い!痛い!と喚き続ける。それが始まると手がつけられなくなるため、2階で息をひそめてやり過ごすしかなかった。
ただ不思議なことに、デイサービスに行っているときは痛みが出ないらしく、唯一の救いとなっていた。当時の私にとって母は“恐怖”そのものであり、彼女がデイサービスで不在のときにしか、安心して入浴ができなかったほどだ。

なかでも苦しめられたのは、両親の家具や生活雑貨類を処分したことが引き起こした、はげしい被害妄想だ。

父が入院したのをきっかけに、在宅介護を視野に入れて、1階の居間にあった家具を夫にも協力してもらって一気に片づけた。書棚を処分し、父が丸まっていた黒いソファをほかの部屋に移動させて介護ベッドを入れ、退院してからの2週間を父はそこで過ごした。
父を看取った後、そのまま母の在宅介護に突入。じきに彼女は料理をしなくなったうえに、電子レンジとオーブントースターの違いがわからなくなり、お米を盛ったご飯茶碗をオーブントースターで温めてしまうため、どちらもキッチンに置いておけなくなった。
さらに、何もできなくなった母には必要ないからと、1階を埋め尽くしていたものというもの、食器も雑貨も衣類もすべて、私は処分しまくった。これからは何から何まで私が世話をするのだから、私のやりやすいように整えさせてもらう。それが私の言い分だった。

「何もなくなっちゃって、この家にはもう住めないじゃないか! わたしはこの家のあるじだ。この家はパパが建てたんだ。パパが死んだんだから、妻であるわたしの家になったんだ」
「違います。この家を建てたとき、私たちからも建築費は出しています。パパだけが建てた家じゃありません」
「そんなことあるわけがないでしょ⁈ この家はパパが建てたんだ。あんたたちは、無料で30年もこの家で暮らしてきたんじゃないか!」
「無料で住んでいるのでありません。互いにお金を出し合って、共有名義なので、私たちの家でもあります」
「うそよ、そんなの。無料で住まわせてやったんだから、わたしを施設に入れようとしたってだめなんだからね」
「施設に入れるなんて言ってないじゃない! あなたが何もできないから、こうして食事を運んできているだけじゃないの!」
「年老いた親の食事を子供が作るのは当然でしょ?」
「当然ではないでしょ⁈ あなただって、自分の父親に一人暮らしさせていたじゃない! それに、最終的には老人ホームに入れたよね?」
「わたしはおばあちゃんを見たから、あれは妹の番だったんだ」

彼女の言う「妹」とは、わたしにとっての叔母だ。すべて叔母のせいか! 過ちやまずいことはすべて人のせい……本当にいやな人だ、こんな考えをする人は大嫌いだと、心の底にこびりついたやり取りとなった。

生活環境を急激に変えてしまい、母の認知症を進行させたと今では理解している。しかし当時の私にとって、両親の持ち物を処分したことは、やっかいな母をおいて死んだ父と、何もできなくなったくせに威張りくさっている母への腹いせだったのだ。

被害妄想は、その後2か月以上続くことになる。
面談に訪れたケアマネジャーが、背中の痛みで喚き散らす母を目の当たりにし、この状態では家族がまいってしまうからとショートステイをすすめてくれて実際に行かせたのだが、それが彼女の被害妄想をより悪化させた。ショートステイの意味を理解しないため、母は施設に入れられたと信じ込むのだ。

ショートステイから戻るたびに、内藤さんや黒木さん(実在する人たちか私にはわからない)に「監禁先から救い出してくれてありがとう。最も感謝すべきお人です」だの、「今後は注意、注意! 気を付けます。子供にでもね!」と手紙を書いた。また、佐藤信子さん(同上)には「あなたが呼んで下さらなければ、私は永遠に自宅に帰れなかったかも?」の文言に重ねて、「Be Care!」と赤えんぴつで書かれた紙きれも残っている。

事態が好転したのは、メマリー(一般名はメンマチン)という認知症治療薬のおかげだ。
それまでは脳を活性化させる薬を処方されていたが、被害妄想に家族が困らされていることを往診時に言うと、医師がメマリーに変えてくれたのだ。
メマリーを調べてみると、中等度および高度アルツハイマー型認知症に処方され、妄想や幻聴などの周辺症状を抑える効果があるそうだ。もう少し詳しく見ていくと、NMDA (N-methyl-d-aspartate) 型グルタミン酸受容体拮抗薬とあった。グルタミン酸はアミノ酸の一種で、神経伝達物質なのだという。その受容を邪魔する薬なのだから、脳が活性化しすぎるのを抑えるのだなと、正確かはわからないがそう予想した。

このときの覚え書きを見ると、
―—10月14日 言い争いになって、メマリーを飲ませたら沈下
――10月15日 「私を施設にいれるのか」と責められる。
        メマリーを飲ませる
――10月16日 朝よろけてあごの下を切り出血。臨時の往診を依頼。
       被害妄想のひどさを伝える。メマリー増、ドネペジル中止
とあり、数度にわたって医師に相談し、助けを求めていたことがわかる。

かつて、母に「感情は物質による現象だ」と吹聴され、文学的な思考を好む私は「そんなふうに決めつけたら、生きることがつまらなくなる」と言い返したことがある。形而下しか評価しない母を私は毛嫌いしてきたが、母の被害妄想を抑えてくれたのは、まさに“物質”だった。私が遠ざけてきた生物化学によって救われるとは、なんと皮肉なものか。

メマリーの服用で被害妄想は落ち着きの方向へと向かってはいったが、ショートステイに対する母の警戒心はとにかく強く、当日キャンセルに至ったこともある。
忘れもしない2019(令和1)年10月26日。私は朝から夫と外出する予定があったため、妹に送り出しを頼んだのだが、様子の違いに気づき「あの車はデイサービスじゃない。あの人は知らないから乗らない」と、ヒステリーを起
こしたそうだ。妹によれば、ヒステリーの度合いが尋常ではなく、迎えのスタッフにも妹にもお手上げ状態だったとのこと。

それでも、私はショートステイに行かせるのをやめなかった。母に勘ぐられないように妹に頼むことは二度とせず、大きな荷物が母の目に触れると気づかれる危険性もあるため、迎車が自宅に着く直前で電話をもらい、夫に先行してもらって荷物をまず渡すようにした。
さらに、車が違うと母に言われても「デイサービスの車です」で通し、迎えのスタッフにも「デイサービスのお迎えです」と口裏を合わせてもらって、言葉は悪いが騙して迎車に乗せることをやり続けた。
日々の介護のなかで、私は“恐怖”にさらされ続けており、母が不在の期間をつくらないと私の精神が破綻するのは目に見えていたからだ。

【介護はします】

2023(令和5)年4月、母は現在91歳で、認知症は6年目に突入。いまやショートステイの迎車の違いに気づくことはないが、万にひとつの失敗も許されないので、母に先んじて荷物を渡すことは続けている。
 
そして、この5月。私の心に変化をもたらした出来事があったので、綴っておきたい。

1つ目は、とあるサイトに掲載される介護座談会に参加したことだ。
座談会に先立ち、記事作成を担当するライターさんから電話取材を受けたのだが、彼女はライター業をしながら老人保健施設で相談員もしているそうで、介護者の悩みを聞くことに慣れているのだろう。わたしの話を電話越しにじっくりと聞いてくれた。
「こんなこと言うのは気が引けるのですが、私、母が嫌いなんです」
と、漏らすと、
「いいんですよ、まったくかまいませんよ」
と、返してくれた。その温度感というか、寄り添ってもらっている感じがとても心地よかった。

座談会は、在宅介護経験者が私を含め3人にライターさんが加わっての合計4人で、全員が女性。家族以外に在宅介護の状況を話すのは初めてだったが、電話取材からのつながりもあって、過剰な嫌悪感から彼女に触れられない状態であることを吐露したのだ。

母は便もれが日常的にあるので紙おむつで生活しており、そのせいで腰回りに肌荒れが起きる。予防のために保湿クリームを塗らなければならないが、母の肌に直接触れることができない私は、使い捨てのビニール手袋を必ずはめる。爪切りにいたってはよりハードルが高く、彼女の指を持つなどまったくもって鳥肌ものであり、その際にもビニール手袋は必需品だ。

しかし意外にも、介護現場ではそれが正しいという。介護職の方たちは、例えば水虫といった感染症のまん延予防策として、ビニール手袋をしたうえでケアをするそうで、素手で利用者に触れることはないとのこと。母に触れたくないからという私の動機がよいとは思わないが、行為の正しさを断言してもらったことで、私は気持ちがとても楽になった。
 
2つ目は、父の命日の5月25日に、ひとりで墓参りに行ったことだ。
墓といっても自治体が運営している合葬式納骨堂だから、墓石も蘇東坡もない。こんもりと盛りあがった芝生の小山にハナミズキが植えられており、白い花が見ごろを迎えていた。
 
(今まで会いに来なくて、ごめんね……)
心のなかの第一声で、私は父に謝っていた。
(でもさ、大変だったんだよ……。あんなやっかいな人をおいて逝って、ほんとにひどいよ)と不満をぶつけ、(もう無理だから、早く迎えにきてやって。お願いだよ)と黄緑色が美しい小山に向かって弱音を吐いた。
自然と涙があふれてきて、こわばっていた心がじんわりと緩んでいくのがわかった。そして、ある考えに至ったのだ。
 
母に早く逝ってほしいと願っているのは、まぎれもなくこの私だ。
でも、彼女のいのちは彼女のものであり、私のものではない。私のものではないものに対して私が終わりを望むのは、はなはだ身勝手で筋違いだと得心したのだ。この先十年長生きするにしても、半年後にいのちを終えるにしても、いずれも母のいのちであり、そのいのちの行方を私は側から見ている存在にすぎない。
だから、私の思うようにならないのは当然で、素朴に言えば、自然に任せるしかない。自然は思うようにならないし、思い通りにしようとすることは傲慢でしかない。その思いに至った瞬間、面倒を見てやっているという感覚から解き放たれたのだった。
 
思うようにならないのは子育てで実感してきたが、介護でも結論はそこにあった。だからといって、彼女の肌に触れられるようになったわけではない。長子の義務を捨てられたわけでもない。ましてや、母を好きになれるわけはない。
 
でも、それでいい。自分の感情ですら、自分の思い通りにはならないものだから。

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