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GOOD~善き人~感想

「GOOD~善き人~」観劇してきました。
さすがドイツ戯曲、硬派中の硬派。
ストレートに人の在り方を投げかけてくるあたり、ある意味でドイツらしい合理主義といえる戯曲で、ひさしぶりに語り倒したいと思わせてくれる素晴らしい作品でした。
とはいえ、前半かなり場面の分解がはげしく、難解でわかりにくいと感じたひとも多いとおもうので、感想を語りつつ主題をまとめていきたいとおもいます。

※以下ネタバレを含みますのでご注意を。


登場人物解説

<主人公の母>

主人公ジョンには盲目で認知症の母親と脳に障害を抱える妻と二人の子供がいます。
まず、この認知症の母親の演技があまりにも真に迫っていて、介護業界で働いている自分にはもう現実を突きつけられすぎてめちゃくちゃしんどい気持ちになりました苦笑。
盲目と言っても後天的なもので、おそらく加齢黄斑変性症や白内障緑内障などの高齢によるものとおもいます。
認知症の初期段階で記憶障害に自覚があるため、不安とストレスが極大化している母親。病院にいては「家に戻して」、家にいては「病院に戻して」と言い。今の自分がおかしくなっているのは「老い」という自然の摂理ではあるけれど、誰かのせいにせずにはいられない。
仕事柄、母親の心理を書きだすだけでとんでもない文章量になってしまうので割愛しますが、「記憶が失われていく」という「自分が自分でなくなる」恐怖が、ヒステリックな言動に繋がっているのであって、生来そういう人ではなかったはずです。

<妻ヘレン>

脳梗塞の後遺症と思われる高次機能障害がある妻。発音がたどたどしくなる軽度の構音障害、ふたつの事が同時にできない注意障害、物事の組み立てができなくなる遂行機能障害など複数の症状が出ています。
本人に病識の理解があり、漠然とした不安はありつつも、それを受容しているかに見えます。
けれどこの受容は、主人公のアガペーともいえる献身的な助けのうえに成り立つ、現実から目を背けただけのものでした。それが故に、夫の役に立っていない、足を引っ張っているだけの自分が、その無償の愛を受ける資格があるのかという不安を抱えつつ、日々をすごしていたものとおもいます。
主人公との間に二人の子がいますが、物語に一切作用しない存在のため、登場しないところにドイツらしい割り切りと合理性をかんじます。

<親友モーリス>

親友であり精神科医であるモーリス。人種差別による迫害を受ける立場であり明日をも知れぬ状況から来る不安とたたかいつつも、精神科医であるがために自身の精神分析が出来てしまうことで、理性と本能あるいは狂気との狭間で懊悩しつづけて徐々に疲弊していくその姿は、観ていてつらいものがありました。追われる身でありながら親友のためにユダヤ料理を買ってくるなど、本来知性にあふれた快活な人物であった事は、間違いないはずです。

<教え子アン>

主人公の教え子であり、不倫相手であり、後に妻となるアン。登場人物のなかで唯一、極度の不安を抱えていない人物といえます。それが故に、ジョンは彼女に安息を感じ、惹かれてしまったのだと思います。ジョンからアンへの気持ちは理由なき恋のような描かれ方をしていましたが、母や妻ヘレンが喪失してしまった「母性」の対象として彼女を必要としていたのだとおもいます。
最後の最後まで母性の象徴として主人公ジョンを全肯定し、彼に「善き人」だと伝える大切な役割を担っていますが、物語に都合良い人物すぎる感は否めません笑

<主人公ジョン>

主人公ジョン・ハルダー。ドイツ文学を教える大学教授。認知症の母と高次機能障害の妻を抱えた実体験を元に書いた私小説が時の政権に認められ、党内部で人道政策を推進するプロパガンダとして利用されていく。
ただただ平穏無事な毎日を望む一介の市民である彼が、家族に、友人に、そして社会にと否応なしに巻き込まれていく姿は非常に情けなく、ドイツ戯曲らしくヒロイズムのかけらもない主人公ですが、それを最後まで見せ続けていく事で、どうするのが正解であったか、正解であるのかを観客に問い続けることになります。

キーワード

「音楽」

冒頭、主人ジョンが友人であるモーリスに「音楽が聞こえる」と悩みを打ち明けます。
これを聞いた瞬間に真っ先に浮かんだのは三島由紀夫の「音楽」という小説です。そしてやはり小説と同じようにジョンがいう「音楽」は暗喩であり、それを巡って話が展開するキーワードのひとつだとわかります。
この楽団の正体はラストシーンで明かされます。彼の妄想であったはずのその楽団は、アウシュビッツには現実としてそこに存在していた。
これは歴史上、実際に存在した楽団で、恐怖と狂気に満ちた収容所で、そこにいる全ての人の心を少しでも穏やかにするべく音楽を演奏していた楽団です。音楽に限らないですが、芸術を心理誘導の道具にしていたナチスらしいエピソードですね。
つまり、彼が悩み葛藤したり、不安や狼狽したときに心が支配された時に楽団があらわれ演奏していたのは彼の心の防衛機能だったと解釈できます。
あれだけ悩まされていた「楽団の音楽」が聞こえなくなった時、ジョンの心は破壊されたものになっている事でしょう。

ジョンの心理的な機能としての楽団と、黒子として純粋に劇伴を奏でる楽団と、モブとしての楽団が混然一体となって舞台上に存在していることや、別の主題が盛り上がっていくこともあり、後半になるにつれてジョンが楽団について言及しなくなっていくので、ラストシーンで突然「ここには現実に楽団がいた」といわれても、とつぜん思い出した伏線回収という感じがしなくもなくもないですが苦笑

「楽団」

「音楽」というキーワードとは切り分けした、演劇的な、舞台装置としての楽団について少し。
この舞台において、エンターテインメントを担っているのがこの楽団です。
演出によるものだとおもいますが、飛び道具としての機能が素晴らしく、重く暗くなりがちな物語の中で娯楽性の高い存在になっています。
時にチャップリンやヒトラーになったり、黒子的に男性が女性のアテレコをしたりと、虚構と現実の壁を容易に超えた活躍を見せてくれます。
役者だけでなく、ぜひ彼らにも注目してほしいです。

「全体主義と個人主義」

社会全体の幸福といえば響きは良く、個人より高位の概念と感じ取れてしまうのですが、その社会を構成しているのは個人であって、本来は個人ありきなんですよね。逆に個人を犠牲にした、個人の幸福を前提としない社会の幸福は、その社会をコントロールする為政者にとっての幸せにすぎないわけです。
ただ、当時の熱狂による暴力がそのような個人ありきの思想を許す状況ではなく、そんなことを声高に言えば社会に仇なす危険思想家・反社会分子として特殊警察に捕らえられて拷問を受けることとなってしまいます。これは何もドイツに限らず、当時の日本もおなじ状況であったのは言うまでもなく、他人事ではなく、いまの日本もいつどこかのタイミングでまた同じ状況にならないとは言えないんじゃないかなとおもいます。
「社会のため」「他人のため」そういった言葉を耳にした時は、個人の幸福がおろそかにされていないかを確認してください。Twitterで炎上を目にした時、正義の熱狂がだれかを傷つけていないか、確認してください。ひとは、正義の名のもとに誰かを断罪することに快楽をおぼえるものです。それは本能に組み込まれたもので文化的な成熟とは無関係に起こります。特に豊かさという余裕を失った、制約的な日常を大なり小なり強いられるフラストレーションの溜まりやすい社会では正義という甘美な響きが陶酔を呼び、言葉や力の暴力を是とする状況になりがちです。
そんな全体主義が世間を覆っていく中で、主人公ジョンは著書の中で、認知症の母を個人として扱わず、他人に不利益をもたらず社会的にマイナスな存在であり、断罪すべきであるというような内容を記してしまったがために、時の政権に利用されていく事となります。

「焚書」

文学部の教授でありながら、焚書という行為に加担せざるを得なかった主人公ジョン。権力者が書物を焼くという行為は、その書物を全否定することであり、思想や信条の自由を奪うことです。
思想や信条の自由を奪うということは個人の自由を奪うということ。たかが本が燃やされただけとおもわないでください。
そしてそれを政治的行動として行うということは、市民の自由を奪うことだけでなく、その思想信条に同意する者は同じように断罪するし、反抗をゆるさないということを意味しています。
社会のためという正義の旗のもとに、個人の自由を奪うこと。あってはならないことですが、逆らえば自身の生命が脅かされる。恐ろしいのはその正義の熱狂です。
焚書に加担したジョンの気持ちたるや、本当に暗澹たるものだったとおもいますし、それを狙って焚書をジョンに命じる党本部の、徹底した個人の心をつぶすやり方は凄まじいものがあるとおもいます。
それだけ、個人による指摘・反抗が熱狂の妨げになり、翻って政府をつぶすだけの熱狂になる得る事を知っていて、それを恐れていたからではあるのですが。

「客観的な正しさ」

物語の中盤、主観的な正義ではなく、客観的な正義とは何か、とジョンがモーリスに問います。
正義とは個人の中にある概念で、客観的な正義なんてものは実際には存在しえないのですが、もしそれがあるとしたら、この世のあまねく全ての人が納得できる、真なる善というものになります。
ひとは生まれてから絶えず選択を繰り返し生きる存在ですから、無意識のうちに真なる善を求めていまいます。そんなものが存在するのであれば、それは選択の指針となり、それに従えば良いのですから、自らを正当化しうる価値観、それが真なる善です。
そこで生まれたものが宗教であったり、思想であったり、道徳であったり。名は違えど、自身の選択を裏付けてくれるものを求めた人間が作り出した概念です。
しかしながら、いかなる状況でも変わらない、不変的な「真」たる事は唯一宇宙を支配している物理法則ですらかなわない事ですし、「善」においては正義と同義なので個人の中にしかないもので、「真なる善」とは迷える人間のないものねだりでしかないのです。

「善き人」

今作のタイトル「良き人」ではなく、「善き人」です。
家庭状況や社会状況に本位ではないにしろ流される形になり、自身の人生の選択に懐疑的になっていたジョンに自分で得られなかった「客観的な、真なる善」を与えてくれたのは妻となったアンでした。ジョンが失っていた自己承認を満たしてくれた母性全開のアンによって、ジョンは自己実現を果たし、アウシュビッツでの任務に立ち向かいます。
認知症の母を本人の意思とは別に安楽死に向かわせ、高次機能障害をもつ妻を捨てて教え子を新たな妻として迎えたこと、焚書に加担したこと、安楽死を推進したこと、友人を救い出すことも逃がすこともできなかったこと他etc、平和な社会に生きる観客からすればとても「GOOD」な選択を選んできたとは思えない、いやむしろ「BAD」な選択をしているジョンですが、それでもアンにとってジョンは「GOODな選択をした」「善き人」でした。
それは言い換えれば「ありがとう、愛してる」という意味で、迷いの中に生きるジョンにとって、その迷い全てが救済される祝福の言葉だったとおもいます。
身の丈にあった「GOOD」。それをつかみ取ることができたら、その人は幸福な人生をおくることができるのではないでしょうか。

「虚構と現実」

過去の感想文を読まれている方には毎度毎度のキーワードですね笑
演劇という虚構的空間において、絶対に必要な要素という個人的な信条に基づいてこの言葉を取り上げていますが、今作においては前半の場面転換がシームレスかつ本人が精神的錯乱を起こしていることで、他の登場人物がジョンの空想の産物であるかのような錯覚を起こさせるミスリード的役割を果たしています。
後半になるにつれ、全員ジョンの周囲に実在している確信が得られますが、正直、途中休憩の段階では精神科医である親友モーリスですら、ジョンのイマジナリーフレンドかもと思っていました笑
さて、作中における「虚構と現実」はジョンの脳内楽団が現実の登場人物として出演しだすところにあります。虚構と現実の垣根があいまいになって、観客もジョンと同じ風景を見ることができる演出はとても素晴らしいです。

また、作中の「虚構と現実」とは別に、ラストシーンで背景の壁が取り払われて、ジョンがその向こう側へと進んでいくシーン。
これは劇作家・唐十郎が得意とした演出で、物語はここで終わるけれど主人公はまだ未来へ進んでいくという事を示唆するだけでなく、この物語という虚構から目が覚めても、観客のみなさんはこの物語を現実に持ち帰ってくださいねという意図が込められています。
物語に集中していた観客が開放感とともに、自身の人生を鮮烈に取り戻す瞬間。緊張と開放を最大限に活かした大好きな演出です。

北川拓実くん

この舞台における役割と演技

この舞台において北川拓実くんは、役名のある役どころはテーマに対して重要な役割を担っているわけではないですが、楽団の一員としての役どころは舞台のエンターテインメント性を高めてくれる役割を果たしてくれていました。
なかでもバニースーツに身を包んだ女性が妖艶にジョンに絡み歌うシーン。その女性から聞こえてくる歌声が拓実くんの声で、あまりにも倒錯的な演出に、性癖が狂うかとおもいました笑

役者として前に出すぎず、脇を固めるという表現が相応しい演技に徹しつつも、アイドル的な本人ありきの演技ではなく、しっかりと役に寄り添った演技を披露してくれました。後半に拓実くんの一番の見せ場として若手将校ボックの長台詞があり、それはもう若さゆえに自身の正義を疑わない自信に満あふれたボックらしさ全開の慇懃無礼な演技を全うしてくれました。
本人の延長にない、完全に別人格の演技、別人の生命をまといそこに生きていることを表現するができること。舞台役者としての北川拓実の才能と魅力を今回も見せてくれ、また技術的な面でも、セリフの前後の呼吸を感情表現に結び付けていて、歌い手として磨いた技術を演技に昇華していて、とても素晴らしかったです。

最後に

北川拓実くんが、この本格的すぎる舞台に演者として選ばれたことは、舞台役者としての実力と魅力が認められた結果で、それ自体がいち少年忍者担としてとても誇らしいことですが、何より彼が選ばれ出演しなければこの戯曲と出合うこともなく、これだけの文章を書きたいという衝動を得ることもない人生であったとおもうと、キャスティングに関わったすべてのひとに「善き人すぎます」と感謝の言葉をつたえたい気持ちでいっぱいです。
連番してくれた拓実担の友人が「拓実くんがいろんな世界に連れていって、いろんな世界を見せてくれる」と言っていたのがとても印象的で本当にそのとおりだとおもうし、拓実くんは本当に素晴らしい子だなとおもわせてくれました。
拓実くんの、これからの飛躍に心から期待したいです。

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