見出し画像

貰いものじゃない羊羹

 在宅ワークをするようになってから、時々、家の周りを散歩している。だいたい同じ道を、だいたい同じ時間に歩いていると、そこそこな割合で同じ人に会う。今日はその「同じ人」たちの一人であるところの、商店街のおばあちゃん(ちょっとだけ知り合い)に、栗羊羹をもらった。

 おばあちゃんは「貰いものなんだけど食べきれなくて」と言って、私に羊羹を3つくれて、左手にスマホと鍵だけ持って歩いていた私は、羊羹3つ、右手に握りしめて帰った。「おばあちゃんがくれる貰いものの羊羹」みたいな典型的なこと、令和でもあるんだな~とか考えながら歩いていて気づいた、そういえば「貰いものじゃない羊羹」って見たことあったっけ?

 家でおやつに出たこともあるし、おばあちゃんの家で食べたこともあるし、訪問先でお土産にもらったこともあるけど、「羊羹を食べる」行為は、いつもまずギフト包装を剥くところからはじまった気がする。羊羹ほど、ゆるぎなく「貰いもの」な食べ物、私の中では他にあんまり無い。

 自分で「羊羹が食べたい!」と思って買ったことは絶対に1度しかない。季節まで覚えている、高校1年生の夏。現代文の授業で、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読んだ。『陰翳礼讃』には、谷崎が羊羹の美しさについて滔滔と語る段落がある。

「かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさをふくんでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。」(谷崎潤一郎『陰翳礼讃』)

 後々、作品の他の部分も読んでみたら、建築やら和食器やら色んなものの陰翳が語られていたけれど、結局ハイライトはどう考えても羊羹だった。先生の解説も羊羹のところで異常な熱を帯びていて、わたしは恍惚としゃべる先生の口の端にたまった泡を見ながら、人生ではじめて「めちゃくちゃ羊羹たべたい」と思ったんだった。たぶん。

 その日の帰り、最寄り駅にある大手チェーンの和菓子屋さんで一番くろぐろとしていた羊羹をひとつ買った。谷崎の言うとおり部屋を暗くして、お客さんが来た時にしか出さない赤黒い漆器を出して、制服を着たまま、はやる気持ちを抑えてひときわゆっくり食べた。わざわざ、竹をけずった太いつまようじみたいなやつ(名前がわからない)でうすく切って。

 と、ここまで詳細に思いだせるのに、味の記憶が一切ない。次の記憶は、翌日学校に向かう電車で友達と、「谷崎のやり方で羊羹食べてみたら、本当においしく感じちゃった」話で盛り上がったところに飛ぶ。でも、女子高生、君はその後、一度たりとも自分で羊羹を買ってないんだ。貰いものの羊羹が、嬉しくなかったことも一度もないけれど。

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?