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映画「星の子」感想
久々更新…💭
先日、ずっと見たかった映画「星の子」を見ました。
【あらすじ】幼い頃から病弱だった主人公の両親は、父の会社の同僚から紹介された“あやしい宗教”を深く信じている。ある日、一目ぼれした新任の先生に、公園で奇妙な儀式をしている両親を見られてしまい…。
不確実だけど、誰しもが持っている
「信じる」気持ちについてすごく考えさせらました。
映画の中では「○○らしいよ」とか「その考えはおかしい」というセリフが頻繁に登場してきました。
普段から自分も使っている言葉。
だけど俯瞰的に見ると、その言葉の裏にはその人の信じている「ポリシー」みたいな何かがあると感じました。
日本では特定の宗教を持つ人が少ないです。(初詣行くし、お経もあげるし、クリスマスも祝っちゃう)
一見、いろんな考えを取り入れててリベラルに見えるけど、みんなその中から自分が好きなもの・信じたいものだけ信じているんだろうなぁと、映画を見て思いました。
そして主人公の家族の姿が、4年前にキリスト者になった自分と重なりました。
たまに「自分って他から見たらおかしいのかな」と思うことがある。実際、日本ではキリスト者は1%しかいません。
メディアでもよく、新興宗教の問題が取り沙汰されていますよね。
幸い、私はキリスト教主義の学校へ行けたから理解をしてくれる人が多かっんです。
それでも偏見はあるな~って感じる。一緒に教会へ行こうと誘っても
「私はいいよ~」
「私は信じないから~」
「教会へ行ったら信者にならなきゃいけないんでしょ?」など。(そもそも、教会へ行く=信仰するではないと思う。ましてや信者になるには事前の準備割とあるからすぐにはなれない)
この言葉、意外と傷つくし、自分が否定されている感じがする。
主人公の家族が、自分たちが信じているものに対して真っ向から否定されているシーンが、自分とすごく重なりました。
この映画ができたときに、主演俳優が話した”信じる“ことに対しての持論がとても話題になりました。
「人を信じるということは
その人自身を信じているのではなく、
自分が理想とするその人の人物像に期待してしまっていることなのでないか。
だからこそ人は、裏切られたとか言うけれど、それはその人の見えなかった部分が見えただけであって、
そのときに『それもその人なんだ』って受け止められる揺るがない自分がいることが信じられることなのかな、と思った。
でも揺るがない自分の軸を持つのはすごく難しい。だからこそ人は信じるって口に出して、不安な自分がいるからこそ、
成功した自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなって思いました。」
キリスト者の私は、聖書の言葉に心が救われたから信じようと決心した。
いわば、聖書の言葉にすがっているのかもしれない。
でも、信じていない人がいることも理解しています。
社会に害がなければ、信仰は自由でしょう?
他人が信じているものに対して、自分の主観で判断してはいけないし、受け入れることが必要なのかなと考えた1日でした。
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