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悪夢の終わり

獣のうなり声のようなパトカーのエンジン音が、最上階のスイートルームまできこえてきて、もう潮時だな、と貴方は言った。
「脱出ルートはある。そこから逃げよう」
 この日を想定して厨房の床下に通路つくったんだ。そこから逃げれば、奴らをまくことなんて簡単だ。けれど、貴方はベルベットソファに沈めた腰を上げようとしなかった。酒の密造、賭博、血嵐吹き荒れる抗争。今までのすべてに、もううんざりだと、葉巻ののぼる煙を見つめる目は疲れ切っていた。
「これで国から出ていけ」
ソファの肘掛に仕込んだスペースから、帯がついたドルの束を取り出し、テーブルに投げた。ざっと二万ドル。どこかの島に高跳びするには充分だ。
「いらない。それよりも」
 貴方の肩にかかったロングコートの襟をつまんだ。
「逃げる金より、俺のコートが欲しいのか」
 鼻で笑った貴方は、ソファを立った。後を追おうとしたとき、真っ黒が視界に覆いかぶさった。剥ぎ取ると、それは貴方のコートで、貴方は部屋から消えていた。早変わりの手品のように消えた貴方。今まで一緒いた時間は、貴方の存在は嘘だったのではないか、と一瞬本気で思った。コートを抱く。繊維まで染みついた、葉巻と汗と硝煙と返り血の匂いが鼻腔をくすぐった。
 最後の瞬間まで勝手な人だ。
しばらく、そのままコートに顔をうずめたまま立ち尽くす。パトカーの騒音がどんどん遠ざかっていった。

「悪夢の終わり。暗黒街の帝王、獄中死」
 ニューヨークタイムズの一面を飾った黒い文字を最後までなぞることなく、くしゃくしゃに握りつぶした。コートの襟を正す。季節は冬にさしかかっていた。あの日からの何度もむかえた冬だけれど、貴方の隣にいた時よりも、寒さが身に沁みてしょうがない。コートに残った葉巻の塵が目に入ったようだ。沁みて、前をむいて歩けない。

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