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死ぬ気まんまんである

こんばんは、明日から三月いかがお過ごしですか? 秋峰です

わたしはタイトルどおり≪死ぬ気まんまん≫です
理由は大きく2つ

今日はその1つを書こうと思います

いけばなとかけ離れてる、と思うかつながってるナ~と思うかはアナタ次第

人はアッサリ死なないけどあっさり死ぬ

わたしはとてもとても大切な人を亡くしています
経緯は詳しく書きませんがとにかく人ってこんなにアッサリこの世を去るのかと受け入れることができませんでした

受け入れるまで長い時間がかかった
いや、あれから長い年月が経ったけど今も受け入れる気持ちはない

花をいけることが生きがいだったけど、もう二度と花ばさみを持つことはしない、そう決めました

あの頃を思うと生きている、ではなく『死んでない』だった

またまた~、大げさなぁ、って思う方も多いかもしれないけどね
若いから、とか健康だから、とかでは済まされずあっけなく神様が連れてっちゃうことってある

それでももう1度生きてみようと思う

猛烈に苦しんだ挙句、それでもわたしを救ってくれたのはいけばなだった
もう二度と花ばさみを持たない、そう決めていたけど

当時、東京に住んでいて赤坂にある草月会館でいけばなを習っていた
そして毎年、年末は草月で出しているカレンダーを買い、実家に送っていた
実家の家族はそれを楽しみにしてくれていた
年末が近づいてきてずっと足を運んでいなかった草月会館へやっぱりカレンダーだけは買おうと決めて行ってみた
するといつも教室の受付をしているスタッフの方がわたしをみつけて寄ってきてくれた
そして1枚の紙を手渡してくれた
「秋峰さん、熱心に通ってたのに急に来なくなって心配してたのよ、来てくれてありがとう、これ来年の教室の予定表」

ちょっとずつ氷は解けていった

しまった!今日は≪死ぬ気まんまん≫のお話だった
完全に凍っていたわたしの心が溶けるお話はまたの機会にしますね

とにかくわたしの凍った心がだんだんゆるくなったのはいけばなのおかげだったのは間違いない

何が起こるかなんて誰も分からない

とにかくある経験を経てわたしは「人ってカンタンに死んでしまうことがある」ということを実感したのです

今の時代、通勤のとき電車を待つホームで「むしゃくしゃして誰でもよかった」と突き落とされたり「むしゃくしゃしてたから誰でもよかった」と通りすがりに刺されることもある
踏み間違いの自動車が突っ込んでくることだってある

何気に「行ってきま~す」と出て行った大切な人が『絶対』帰ってくるとは限らない

わたしはそれを強く強く実感してる

ヘンテコな意地を張ってる場合じゃない

例えば家族とちょっとしたいさかいがあったりお友達とちょっとした言葉の行き違いがあったり、意図せず誰かを意に反して傷つけちゃったりってあるよね

わたしは言葉の選択が劇的にヘタクソなのと調子乗りなので頻繁に『そんなつもりじゃなかった』で周りの人を不快にしたり傷つけたりしてしまう

「秋峰ちゃん、ひどい!」言ってくれるならまだいいんだけど急に口を利かなくなったり音信が途絶えたりすることもあって本当に申し訳ないことが山盛り

で、若い頃はこちらもヘンに意地を張って「そっちがそうなら」と思ったり
「謝りたいけど謝り方がわからない」などと半年も悩んでやせ細ったりしてた

でもね、そうやってボヤボヤしてるうちにその人とどんなに頑張っても会えなくなることが起きたりするんだ、って実感するようになった

だから、ヘンな意地を張らず少しでも早く心からの謝罪をすることにしている

相手がそれで赦そうが赦すまいが、それは相手のモンダイでわたしのすべきことをしなければ

突然、死ななくちゃならなくなったときに
「あれも謝っていない」
「これも謝っていない」
「そういえば〇〇も謝っていない」ではキモチワルイ

死んでも死にきれないって

わたしは霊魂とか祟りとかそういったものを全く信じていない

もしかしてそういうことを信じてる人って、後味悪いもの、やましい想いを大量にため込んでて死んでも死にきれないから幽霊だ~なんだ、かんだ、って言うのかな?

そういうワケ、

いつも死ぬ気まんまんでいればヘンテコな意地は張らないで済む

ということなのです^^

もう一つの理由はまた次回にでも、ではまたね




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