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10キロのお米

お米を買いにスーパーへ。
私は1人(と2匹)暮らしなので、普段は5キロのお米を購入している。しかし、今日は数量限定で10キロのお米が安かった。5キロのお米にプラス700円すれば10キロが購入できる。
ただ、徒歩で来ているので、10キロはどうだろうか。お米の他にも牛乳やキャベツなど、割と重めなものを購入する予定もある。
迷ったが、少し持ち上げた感じ「いけるかも…!」と思い購入した。


スーパーから家までは10分ほど歩く。
これ、きつかったかもと気がついたのは、ものの2分もしないくらいだ。
残りの8分、子泣き爺のように負担がかかる。だからといってどうすることもできないので、ただ黙々と、あまり「重い」というところを考えないように歩く。
ようやく家の前に辿り着いたが、両手が塞がって鍵が出せない。
肩や太ももなど、全身を駆使してなんとか鍵を開け、家に入ることができた。
その一連の流れが、なんだか「私」を体現しているようだと感じた。


「ちょっと無理そうかも」ということを、まあいけるだろうといってしまう。これは昔から。
つらいとか苦しいが得意というわけではなく、勢いでスタートしてしまう。
ちょっと進んで無理かもと思っても、引き返さずに強行突破。結局終盤で危うくなるのだ。
そんなことを繰り返しているので、もっと考えてから行動したほうが良い、ということはわかっている。
ただ、今回のお米のようになんだかんだ「なんとかなる」ことが多いので、それが成功体験となり、ずっとそんな感じなのだ。


10キロのお米。無事に買えたのはいいものの、米びつは5キロ用。どうしようかと、とりあえず台所に置いている。
無理をしたから全てがうまくいく、ということもない。
そんなところも「私」っぽいのかもしれない。

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