作曲と、作曲家のピアノについて
朝陽のように爽やかに。
まずい。空の向こうが明るい、、、。なんやかんや朝だ。
先程風呂を入り終え、日記を記した勢いで書いている。
鳥が鳴き始めると、まだ空は昏くとも途端に朝になってしまう。小机を膝に載せ、赤いキャンピングチェアに座って、いつものように。煙草をふかしながら、読書したり、明日の計画を立てたり、こうして物を書いたり。時には敢えて、ただただ存在する全ての音を聞こうとしてみたりする。世界の全ての音に聞き入る時、目は宮本武蔵のいう"観の目" にする。どうしても、"見る目" で居ると、耳が働きにくい。
世界全体の音に聞き入っていると、だんだんとさまざまな音が聞こえ始める。丘の下の波音まで聞こえてくるような気がする。耳が開いてくると、肌が開く。可聴音でない音が聞こえるようになるのだ。だから、この"世界全体を聞く" 行をやっていると、視界の隅で動くヤモリや小さな羽虫の動きに気づいたりする。耳は世界への入り口。目は世界を区切る。音は、聞いた途端に、その存在の波動を己が内に招き入れていることになる。観音様の意味が少しわかる気がする。目は対象として見る。だから、自他を区切る。耳は違う。
現代は目の時代だ。しかし、僕は耳の時代を作りたい。どこかの誰かの輝かしい姿がSNS を通してひっきりなしに入ってくる。比較をするなという方が難しい。自分と隣の芝を見比べざるを得ない。密やかな幸せは、もちろんSNS には流れてこない。
そんな僕も、重い腰を上げ、SNS を使い始めている昨今。だから何、ということでもない。使ってみよう、使わないよりはいいだろうし、うまく使えば楽しいだろう、というノリで。自分の日常の習慣に組み込めば、SNS の発信も楽しく出来るだろう。本当は、日記なんかも人に見せたく無い派なんだけど、そのくせ、誰かに聞いてほしい、読んでほしい、という想いもある。ねえ聞いて、という感じだ。伝えたい想い、みたいなのはある。だから、自分の中だけで終わらせずに、でも見られ過ぎないnote という場で日記を挙げている。こうして徒然に書いていると、あらゆるテーマに枝が伸びて楽しいし。イメージは、親友と飲みながら延々話が尽きない、みたいなイメージ。日記では、自分という一番身近な友人と語り合っている。
さて、こんなことを書いている内にいよいよ鳥たちの鳴き声も色とりどりになってきたし、車の行き交う音も聞こえ始めた。街が起き始める。朝の音楽だ。この音楽を聞くと、不思議と寝る気がしなくなる。でも寝ないと明日後悔するから寝る。
さっき風呂に入りながらセロニアス・モンクのソロピアノのベストアルバムを聴いていた。作曲家のデッサン集のような質感が全編貫いていて心地いい。僕は作曲家の弾くピアノが好きなのだ。上手すぎず、感情を載せること以上に、音を構築することに専念するようなタッチが好きだ。もちろん、感情入りまくりの演奏が嫌いと言いたいのでは無い。むしろ好きだし、むしろむしろ、僕の演奏は感情入りまくり派に部類するだろう。何かを好き、という時、決してそれだけが好きなわけではない。あれもこれも好きなのだ。
作曲家のピアノ。モンクもそう。坂本龍一もそう。デューク・エリントンもそう。エルメートパスコアルもそう。そして、ジョビンのピアノ弾き語りのライブ音源も素晴らしい。流暢過ぎないタッチ。剥き出しの線が見えるようなタッチ。剛毅木訥。技巧ではなく、音楽そのものを第一に考えているような音。作曲家の弾くピアノはいいのだ。僕は好きだ。今、曲を書いているような演奏。演奏家の演奏とはまた違った良さがある。
僕も作曲を毎日している。演奏すること、プレイすることも大好きだけれど、作曲することも同じくらい好きなのだ。鍵盤に向かって鑿を振るう時間は、至福の時だ。この世に今の今まで存在しなかった音を紡ぎつつある、というその瞬間。出産の場面に立ち合う喜びは作曲の醍醐味だ。生まれた赤子のことは大体よくわからない。自分で書く曲だが僕は生まれたその曲のことを知らない。だから、人に弾いてもらうことも好きだし、誰かと共に奏でたい。今はあまり、自分の書いた曲を独りでやろうとは思わないのだ。曲はさまざまな人や状況や自らの境遇に磨かれて育つから。
だからこそ、"書くことそのもの" に意味があると思っている。書いてすぐに演奏することは少ない。時を経て演奏した時に、曲が輝き始めることが多い。書きっぱなしにしてほったらかしていた間に曲は勝手に成長しているのだ。自然農法だ。実際、僕のバンドの曲も、バンドでやろうとは全く考えていない時に書いた曲も多い。曲は、生まれ落ちた時、輝くべき瞬間を知って産まれ落ちているんじゃないかという気がしてくる。だから今日も書くよー。
なんて話をしているうちに、すっかり朝だ、、、。
寝よ、、、、。
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