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理系とか文系とかそういう分類

理系・文系という言葉を、現代では当たり前のように耳にする。
一切聞いたことがない・全く何のことかわからない、という方は現役世代ではほとんどいないのではないだろうか。

この言葉というか分類について、昔からずっと、微妙な違和感というか疑問を抱えている。
受験の際の、あるいは勉学における教科の分類として、という意味ならすっと理解ができるのだが、学生ではない人々についての「理系・文系」のくくりや、「理系脳・文系脳」の分類については、ずっとよくわかっていないままだ。

勉強の科目で言うなら、
理系・・・理科(化学、生物、物理など)、算数(数学や統計学など)
文系・・・語学系(国語、英語など)、社会(地理、歴史、倫理や哲学など)
というふうな分類が多いと思う。

その延長線上で、職業にもこれらの分類を当て嵌めることができることがある、というのはわかる。
なんとなく、研究職やシステムエンジニアは理系っぽいな、だとか。作家や翻訳家は文系っぽいな、だとか。
でも、これが職業を振り分けるための言葉なのだとしたら、「弁護士はどっち?理屈も感情把握もいるでしょ?」「小学校教師とかは?文系っぽいけど指導としては全科目できるし」「音楽家は?規則性や理論や分析はあるはずだけど、芸術家は文系?」などの疑問が生まれてくる。
このように、職業を分類する際には、理系・文系という括りはあまり役に立たなさそう(全分野を網羅することが難しそう)なので、そういうことを示すための言葉ではないのだろうなあと思う。

では、学生以外の人に対する理系・文系という分類の正体は、一体なんなのだろうか?
ネットで検索をかけてみると、大体こんな感じの内容がヒットする。
理系・・・難しいことを簡単に考える、事実に基づき仮説を立て、物事を論理的に考える、感情より理屈を重視するタイプで左脳派
文系・・・簡単なことを難しく考える、事実よりも感覚を重視し、0から1を生み出すような創造性があり、理屈より感情を重視する右脳派

もう少しブログっぽい(専門性の低そうな)サイトを見てみると、割と「理系脳は文系脳よりも優れている」というふうなニュアンスの内容が目に入る。
理系脳は論理的で賢い、理系脳になるためにはどうすればいいか。そういうような内容だ。
なんとなく、世間一般にも、理系脳を優位とする雰囲気があるような気はする(IQが高い、就職に有利、仕事ができるなどのイメージ)。

ここでふと思うのだが、世の中の人々は、そんなにすっぱりと「理系(脳)」と「文系(脳)」に分けられるものなのだろうか。
あの人は理系、あの人は文系、理系のあの人の方が頭が良いよね、私は文系だけど理系脳になりたいな。そんなふうに、(ある程度ざっくりとした分類であるとしても)とりあえず振り分けることができるものなのだろうか?

というのも、私は自分が理系なのか文系なのかというのが未だにわからないのだ。
学歴や職業から見れば理系だろう。難しいことを勉強して、それを簡単に言い換えてまとめたり他人に伝えたりするのが好きだし、得意だ。論理的な分析をするのも好きで楽しいと思うし、整った理論体系は美しいと思う。
一方で、私の子供からの「将来の夢」はずっと小説家だ。言葉が好きで、文字が好きで、本の虫で、今もこうして文章をつらつらと打ち出している。簡単なことを難しく突き詰めて考えていくのも好きだし、身一つで音を生み出したり、なんでもないような絵をいっぱい描いたりするのも好きだ。

左脳派か右脳派かで言うなら、左脳派であるような気はする。
映像として物事や人の顔を記憶するのは苦手だし、誰かの名前を覚えるときはとりあえず漢字でどう書くのかを聞かないと覚えられない。
手や腕を組む時は絶対に左側が上だし、手も足も右利きだ。
そうなると、私はやっぱり左脳派で理系なのだろうか?

でも、たとえ考え方が論理的で理屈っぽい理系の人がいたとしても、例えばわかりやすい論文を書くならそれは文系の能力っぽいし、それを発表したりディスカッションしたりするときに、自分の意図を正しく伝えたり、誰かの話を正確に聞き取ったりするのも、一般的には文系の能力に思える。
理系は賢いけどコミュニケーション能力が低い、正論で話すから共感力が低い、みたいな話もよく聞くけれど、そう考えると、「理系の方が賢い」「これからの時代は理系脳じゃないと生き抜けない」みたいな理屈はおかしいような気もする。

こう考えると、そもそも理系だとか文系だとかを分類する理由というか、メリットみたいなものがよくわからなくなってくるのだ。
MBTIのように、自己分析にある程度役に立つというのは、わからなくはないけれど。それを他者にまで当て嵌め始めて、「こちらのタイプの方が優れている」みたいな話が出てくるのは、ただただ溝を深めるだけであって、ほとんどメリットなんてなくない・・・?と思うわけである。

自己分析と他者分析は、そもそもの機構というか、なんというか、分析のための要素とでもいうのだろうか、そういうものが全然違う気がするよね。
自己分析だと、自分の得意なこととか苦手なこととか、好きなこととか嫌いなこととかを元に分析するのだろうけれど。
他者分析では、それらのことについて「本当のところ」は永遠にわからないため(他人の心は覗けない)、あくまで参照するのはコミュニケーションの部分、つまり「その人はどう言ってるか、どんな態度をとっているか」になると思う。

だから、自分のことをあれこれ考えるのは楽しいのだけれど、それを「普遍的な分類」みたいにしてばら撒いて、その枠に他人を押し込んで何事かを考えるのは、ちょっとよくわからないと思ってしまう。
なんだろうな。
理系文系にしろ、MBTIみたいな性格診断にしろ、一見すると客観的分析に見えるのに、実際は自分の主観でしか分けられていないことについて違和感があるのかな。
人を傷つけるようなタイプのつまらない話をぺらぺらと話せる人の自己分析は、「私はコミュニケーション能力が高いです」になっているかもしれないし、そうすると診断でもそういう結果が出て、でもそこには実は客観性なんてなくない・・・?っていう。

そういうコンテンツ自体は、私は結構好きな方なのだけれど。
「客観的で普遍的な分析です!」みたいなふうにして、他者を評価する手段として使われているのは、あまり好きじゃないかなあ。
好きじゃないというか、違和感がすごくある。

というわけで、今回は私が個人的に覚えている違和感の話でした。
ではでは、今回はこのへんで。


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