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ドラマ「女王の教室」について

「女王の教室」は2005年に放送が開始された、1話60分で全11話のドラマである。
今更なんでそんな古いドラマのレビューを書くのかという話なのだが、当時はnoteのような気軽に感想や所感を綴ることができるツールは存在しなかったので、今更ながら本ドラマについての筆者の想いを書き留めたい。

ちなみにこのドラマは、筆者が人生で1番好きなドラマである。
なので、もし未視聴の読者がいれば、是非自分の目で全話を見届けてほしい。DVDボックスはかなり価格が高騰しているようなので、TSUTAYAのDVDレンタルがお手軽だ。
内容が尖っていることもあり、テレビでの再放送は愚か、ネットフリックスやアマゾンプライム等でも配信はされていないようだ。
だが、まとめサイトや誰かの感想ではなく、そういった事前知識を一切頭に入れず、何も知らないままでとにかく本編を観てほしい。自分の目で。

さて、そんなわけで、当記事は本ドラマについてのネタバレを含む。
本編内の重大な展開などについては極力触れないようにするが、ある程度の雰囲気や流れ、作品のテーマのようなものには触れつつ話していくため、くれぐれも、視聴済みの方のみ読み進めていただきたい。本当に。
人生で1回だけでいいから、1回は観てほしいドラマだよ。全人類。

あらすじ

まずは軽くあらすじをさらう。
主人公の和美は、今日から小学6年生である。
新学期に伴いクラス替えや担任教師の発表があるため、仲良しの友達と同じクラスになれるか、好きな先生が担任になってくれるかなど、期待と不安に胸を含ませて和美が登校するところから、物語は始まる。

和美は多少おっちょこちょいな部分があるものの、真面目で、努力家で、素直で、「小学生最後の1年だから、たくさん友達を作って、楽しい思い出をいっぱい作りたい!」というふうな前向きな夢や希望を胸に抱いている、ごく普通の女の子だ。
おっちょこちょいな専業主婦の母親、子供には優しくて甘いが妻には厳しくあたる大黒柱の父親、体は弱いが頭が良く気が強い姉、といった、いわゆる一般的でありふれた問題を抱えた家庭で育っていることからも、和美が当時の「普通の女の子」であることが裏付けられる。

さて、新小学6年生は3つのクラスに分かれている。
担任教師の候補は、みんなに優しくて友達みたいな若い女教師、下らないダジャレばかり言って平気で生徒の前でおならをするおじさん教師、そして「怖い先生」「最悪な先生」「優秀な先生」などと様々な噂が飛び交う新任教師の3名だ。
そして、和美が所属することになる6年3組は、この新任教師である阿久津先生が担当することが全校朝礼にて発表された。

はたして阿久津先生とはどんな教師なのか?
全校朝礼に出席していなかった阿久津先生と、その後のホームルームで初めて顔を合わせる6年3組の生徒たち。
教室に入ってきた教師は・・・無表情で、色白で、背が高く、全身を黒い衣服で包まれた若い女だった。やたらと目力があり、そのプレッシャーは一瞬で教室の空気を換えてしまうほどだった。

そして、この教師。
自己紹介もせずに突然小テストを始めたと思いきや、小テストの点数によってすべての教室内の物事を決定すると発表する。
すなわち、点数の良い上位数名には特権(たとえば朝のホームルームには出席しなくていい、というような)を与え、点数の悪い生徒にはテスト用紙を直接返却することもなく、半ば投げ捨てるようにしてテスト返却を行う。
更に、点数が最も悪い2名を強制的に代表委員(学級委員長みたいなもの)に任命し、掃除、給食当番など、ありとあらゆる雑務を押し付けると宣言するのだ。

阿久津先生の悪行はこれに留まらない。
授業中トイレに立つことは一切禁止し、テストの成績が良くても先生に逆らったらその時点で代表委員に任命し罰を与え、学校行事でのクラスでの出し物(創作ダンス)の練習では、出来が悪い生徒にはトレーニングと称して学校中の廊下の雑巾がけを命じ、挙句の果てには「お前のような下手くそは学校行事に出るな、風邪でも引いたことにして当日は欠席しろ」などと命じる。
遅刻や掃除の不出来など、少しでも先生の気に食わないことがあれば、教室内の、全クラスメートの前で目立つようにして叱責。更には連帯責任制度を生み出してミスをした生徒が他の生徒に恨まれる状況を作り、また生徒のミスを報告した生徒には褒美を与えるなどスパイのような役割を生徒に与え、クラス内の分断を煽ったりもする。

阿久津先生の徹底的ですごいところは、同じ学年の担任教師、そして教頭先生や校長先生に咎められたり、宥められたりしても一切聞かず、むしろ他教師の弱みをつつくようなやり口で、自分のやり方を貫き通すところだ。
また、生徒の保護者との面談の際も、ひたすら愚痴を聞いて同調してあげる、お子さんは必ず私立中学校に入れる(受験に成功できる)などと甘言で惑わす、生徒が好きな最新のゲーム機を保護者に与える、など、それぞれの保護者に合わせた攻略方法で、すべての保護者を味方につけることに成功する。

舞台となっている小学校は公立であり、学力や家庭環境に大きくばらつきがある生徒が1クラスに集まっている。
すなわち、私立中学校を目指して何年も前からガリガリと勉強している生徒、テストに落書きだけして提出する勉強なんてどうでもいい生徒、親がお金持ちで家庭が裕福な生徒、片親の生徒、片親どころか両親がどちらもいない生徒。
このように、ただでさえ生徒間でギスギスとした雰囲気が流れそうなクラスなのだが、前述した阿久津先生のしかけにより、6年3組は学級崩壊に近いくらいの無秩序でひどい有様へ変貌していく。

いじめ、窃盗、暴力、先生への媚売り、不仲、軋轢、などなどなど。
小学6年生という、無知で無垢のままではいられない、けれど様々なことを悟って受け入れられるほど大人でもない、不安定で未熟な時期の子供たちは、自身のストレスを自分ではどうにもできず、もてあまし、周りの誰かや環境にひたすらぶつけていく。
本当はそんなことをしてもどうにもならないことを、ちゃんとわかっていたとしても、だ。

本作品は、そんなひどい環境の中で、「主人公の和美は、当初の夢であったみんなで仲がいいクラス、を目指し続けることができるのか?」「6年3組の生徒たちは、この1年で一体どんなふうに変わっていくのか?」「なぜ阿久津先生はこんなにひどいことをするのか?」といった疑問や不安を抱えて進行していく。
そして、それらすべての疑問や不安に答えを出す形で、最終回へと話が進んでいく。

この記事ではその回答に触れることはないが、おそらく、ドラマを観たほとんど全ての視聴者が、納得と満足を得て視聴を終えることができるのではないかと思う。
一応明言しておくが、結末として胸糞展開にはならない(過程はなかなかひどいのだが)。バッドエンド、メリーバッドエンドのようなゴールには辿り着かないし、視聴後に重苦しい気分になる鬱ドラマではないということだけは告げておきたい。

ドラマ「女王の教室」に対する想い

筆者は実は、このドラマをリアルタイムで視聴していた。
自身が主人公の和美と同世代だったということもあり、その教室内の「リアル」にどきどきしながら、そして時にはショックを受けながら、1話も1秒も見逃すことなく、全話の視聴を完了した。
当時筆者が受けた衝撃は、このドラマを視聴した事のある方にとっては想像に難くないだろう。

リアルタイム視聴の後も一向に忘れられず、DVDを手に入れ、大人になってからも幾度となく繰り返し視聴した。
視聴する年齢が変わる度に新たな視点が生まれ、「今の私だったらどうするだろう」というふうな思考が生まれ、そして登場人物(主に主人公の和美)の努力やそのひたむきさ、強さ、優しさに涙した。

進藤さんは頭が良い故のひねくれ方をしているけど、最初からずっと、冷静で優しかった。馬場ちゃんは「持たざる者」特有のつらさ、息苦しさ、卑屈さや逃避癖を持っているものの、最終的には友達に救われ、友達の優しさや温かさを素直に真っすぐ受け入れられるようになった。
そして、和美ですよ。
前述したとおり、和美は「普通の女の子」だ。純粋で擦れてない、素直で努力家、といった好ましい特徴はあるものの、「稀代の天才」だとか「人心掌握に長けているコミュ強」だとか「類稀なる清らかな魂の持ち主」だとか、そういうふうな「特別な女の子」では一切ないように思う。

ただ、諦めない強さを持っているだけの、普通の女の子なのだ。
そしてその、「諦めない強さ」の純度が、密度が、意志が、めちゃくちゃにはっきりとしていて、硬くて、熱くて、高い。
つらいとびーびー泣くし、強がりは貫け通せないし、まんまと他人に騙されるし、行動すればするほど空回る。でも、絶対に、折れない。
その真っすぐさは、その立ち姿は、ただそれだけで他人に勇気や温かさを与える。「ああ、私もこれを目指してもいいんだ」「私も、頑張っていいんだ」と思えるような。

その影響をダイレクトに受けたのが、恐らく和美の最初の理解者であるところの由介であろう。
眩しいくらいに強い女の子があんなふうに側にいれば、大抵の人は卑屈になったり諦めたり、しんどくなったりしてしまうと思う。けれど、そうやって自分が卑屈になっても諦めてもしんどくなっても、決して変わらず、眩しいままで、強いままでいる女の子を目の当たりにしたとき、心は融けざるを得ないと思うのだ。
あんなふうな女の子の側で1年間過ごして、その優しさや温かさに触れてしまったら、そんなのもう一生忘れることができないと思う。
たとえ和美と由介が恋愛的に結ばれるような未来がなかったとしても、きっと由介にとって和美は唯一無二の存在で、心の中で生き続ける救いであり、勇気であるように思う。

この物語のテーマはやはり、「自分の頭で考える」というところに尽きるのではないだろうか。
平成に放送されたドラマではあるが、むしろ令和にこそ相応しいのではないかと思えるくらい、社会の曖昧なところ、汚いところ、どうしようもない介入できないところ、そして今自分ができること、その上での他人との関係性、そういったことについて描かれている。
そして、それらのことについて、この物語は「自分の目で見て、自分の体で感じて、自分の頭で考えなさい」と投げかけているのだ。

他人との関係性や、社会における自分の役割や、一般常識と呼ばれるようなもの、それらのものは全て、「自分の頭で考えた」先にしか生じない。
何も考えることなく、目に映るものをなんとなくなぞったり、そうしてわかった気になったり、声の大きい意見に同調したりして、そんなふうに生きていたら永遠に苦しさはなくならない。
目を開けて、美しいものを見て、触れて、心を動かして、どんなことでもいいから、自分の頭で考える。そうして初めて、世界の愛しさや人生の楽しさに気付くことができる。
そうでなければ、歯車のように一生悪夢の中でぐるぐると回っているだけの人生、生活になってしまう。

阿久津先生のやり方はあまりにも極端だし、現代では特に、絶対に許されない振る舞いだと思う。こんなに強い思想を持つ教師はおそらくもう日本にはいないだろうし、それを実行できる環境も当然ない。
筆者はこのやり方が正しいとは全く思わないし、もし自分が6年3組の生徒であったら、息を殺して目立たないようにして、黙ってなんとか1年を過ごすだけの生徒になっていただろうと思うし、和美がいないクラスではその経験は悪い思い出にしかならないように思う。

だから、阿久津先生のやり方は素晴らしい!とは全く思わないのだけれど。
でも、強制的に、そして極めて強烈なやり方で、「考える機会」を生徒たちに与えたそのお手並みは、本当に鮮やかだと思う。
そして、この6年3組を出た生徒たちは、きっとこれから多少のいじめや挫折や理不尽やパワハラではめげないと思うし、自分の頭で解決策を考えて、それを実行に移すという手段をとることができると思う。
だって、「自分が動かなかった時の結果」をもう、既に知っているから。

世の中の理不尽や暴力、誰かとの絆の儚さと共に、子供の頃のたった1年、ほんの一瞬の期間の尊さや青春のようなもの、そして教育とは、自己解決能力とは、というようなテーマを全て網羅してたったの11時間にまとめた、素晴らしい作品だと思う。本当に。
これを超えるドラマに、今後の人生で出会うことはもうないだろうなと思う。
やれコンプライアンスが、やれトラウマがと騒ぎ立てる現代の群衆には、こんな物語を頭からかけたってもうどうにもならないような気もする。でも、それと同時に、今だから観てほしい、とも思う。

文章が読めない、人の気持ちがわからない。そんな人にでも、驚くほどわかりやすく、見やすく描写されているなと感じるドラマだ。
なんなら義務教育として、道徳の授業で全人類に向けて流してほしいドラマだ。
そして、子供に向けて、社会人に向けて、子供を持つ親に向けて、子供がとっくに成人している親に向けて。
あらゆる人に気付きや感銘、感動と勇気を与える物語だと思う。

ここまで読んでくださった奇特な読者の方の中で、もしまだ未視聴の方がいれば、何度でも言うが、是非観て観てほしい。
この理不尽でグロテスクな世界の美しさを、そして、世界の愛し方を教えてくれる物語だ。
どうか、是非、ご視聴あれ。

ではでは、今回はこのへんで。


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