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敵は誰か?

大SNS時代であるところの現代、人々は一切の専門知識を持たずとも、特別なアクセス権を有しているわけではなくとも、自身の身分を明かすことさえせず、簡単にお手軽に誰かと繋がることができる。
スマホをタップする指1本さえあれば、多大なるお金も、誰かからの承認も、面倒な作業にかける長い時間や技術も必要とせず、すぐさま世界中の誰かと繋がることができるのだ。

ネットの匿名性に関しては度々問題視されているところではあるし、誹謗中傷からの開示請求、という流れも昨今では珍しくない。
けれど、誹謗中傷まではいかないような、いわゆる「言論の自由」であるところの批判コメントについては、匿名性の妙を十分に活かした「言論者」たちが、日々ネットの海に言葉を放流しているのが現状だ。

言葉というのは、誰かを生かすこともあれば、殺すこともある。
そういったことは現代では既に皆の共通認識であるように思うし、文章で交流するタイプのSNSにおいては特に、「むやみやたらに誰かを傷付けるような言葉を吐かない」あるいは「訴えられたときに負けるような内容を書き込まない」と心に刻んでいる人も少なくないと思う。
しかし、そういう認識がないままで、ネットの浜辺にゴミを投げ捨てたまま、片づけずに帰ってしまう迷惑観光客のような人間も後を絶たない。

どうしてそういう人間がいつまで経ってもいなくならないのか、というと、やはりこれは「誰でもアクセスできるから」というのが一番の理由であるだろう。

「自分の言葉が誰かを傷付けるかも」という想像力がない人。
「自分の言葉で誰かが傷付くのは良くないな」という倫理観がない人。
「訴えられたら裁判で負けるかも」という危機管理能力のない人。

こういった能力を学歴に結び付けようとは思わないが、あえてわかりやすく表現するために言うと、「中卒から院卒まで、小学生から高齢者まで、貧困層から高所得者まで」誰でもネットにアクセスすることができるのだ。
つまり、どうしたって、上記のような能力が「ある人とない人がいる」。
誰でもアクセスできるということは、そういうことなのだ。

これに関しては、メリットもデメリットもある。
もしも、上記のような能力がある、いわゆる「有識者」たちだけがネットを独占するようになれば、きっとネット内での論調は何かに偏ったものになり、アクセス権を持たない人々の声はネット上で一切反映されないようになって、人々はおそらく分断されてしまうことになる。
すなわち、階級社会に近いものが生じてしまうということだ。
有識者たちだけが語り合い、肩を組んで、それを見ることすらできない人たちは黙って労働するしかない。そういった状況になる可能性がある、ということだ。

一方で、今のようなフリーアクセス制度では、あらゆる視点・あらゆる立場の人たちが言葉を酌み交わすため、まあ、全てがカオスになるのである。
当然、ルールを守れないような人、人としての倫理観が決定的に欠如している人、善悪の区別もつかないような本当に幼い子供までもが、ネットの海に飛び込むことになる。
「IQが20離れている人とは会話が成立しない」という説について筆者は否定的な立場ではあるが、これだけあらゆる環境の人たちが立ち寄った場合、どうしたって「会話が成立しない」ような人は生じてしまうのだ。
だって、「あらゆる環境の人たちがいる」ということすら理解できない人が、たくさんいるのだから。

で、何の話かというと。
私が最近よく見かけるネット上の話題について、下記のようなものがある。

◆男性vs女性の争い
男性の加害性、女性の脆弱性、性別による人権の格差について、恋愛市場における性別の有利性の格差について、妊娠出産における性別の非対称性、などなど。
ざっくりというと、「女が悪い!」と主張している男性と、「男が悪い!」と主張している女性の戦いである。
もちろんこれはネット上の諍いであるので、実際は声の大きな人が数人いるというだけで、全人類の争いがここに濃縮されているわけではないと思う。思うが、少なくない数、こういった主張をしている人がいるように感じるのだ。

◆子持ち女性vs子なし女性
産休育休の不平等性、ファミレスにおけるマナー対決、世間の声や世間からの圧の不平等性、経済的格差、社会に貢献できているかなどなど。
つまりは、「これだから子持ちは・・・」と言いたい子なし女性と、「これだから子なしは・・・」と言いたい子持ち女性の戦いである。
ここに、「生涯独身を希望する女性」や「不妊治療中の女性」などが加わってくると、更に戦いは激化する。配慮、配慮、配慮をしなさいの大コール。私が傷付かないようになんとかしなさい、の主張が飛び交うわけである。

◆頑張っているのにと嘆く親vs親が毒だと嘆く子供
家計の問題、両親の仲の問題、子供の整形を許可するかどうか問題、支配欲が強めの親、親のお金を黙って使い込む子供、進路、就職、仕送り、エトセトラ。
これもシンプルに、「親が悪い!」と主張する子供と、「子が悪い!(あるいは私は悪くない!)」と主張する親の構図である。
これに関しては筆者は当事者であるため、(意見の偏り・誘導を避けるために)あまり言及したくないのだが、まあ、様々なケースがある。赤の他人が「こちらの方が間違っている!」と断言できるケースなんて1例もないのではないだろうか。

◆陰謀論者(あるいは善良な市民)vs政治家
ワクチンがどうだとか、在日がどうだとか、高齢者がどうだとか、人口がどうだ出生数がどうだ、とか、そういった内容である。
筆者は不勉強なためあまり詳しく語ることができないのだが、これは主には、市民が「政治家(国)は実はこんな悪いことを企んでいる!みんな騙されるな!」と主張しているような状態である。これに対して、政治家が公的にSNS上で反論することはほとんどないだろう。
これについては、個々人が自分で調べて勉強しないといけない内容であり、事実がどうあれ、声の大きな方を信用するというわけにはいかないと思うのだが、ネット上では声の大きな(拡散数の多い)コメントがいわゆる「主流」とされていることが多いのではないだろうか。

いくつか挙げてみたが、このようにネット上で激しく争っている(いわゆる炎上とか、バズるとかいうやつ)内容に関しては、おおよそほとんどが「あいつは敵だ!」という主張が為されていることが多いように感じる。
自身の立場がどうあれ、どういう環境にいて、どんな知識を有していようとも、こういった人たちが言いたいことは結局のところ、これに尽きるのではないだろうか?

私は悪くない!あいつが悪いんだ!

あくまで筆者の意見ではあるのだけれど、多くの人は、誰かを敵だと思わないとやっていられないのではないかなと思う。
だって、「自分は悪くない」を成立させるための単純明快な解が、「あいつが悪い」なのだから。
そうとさえ主張していれば、明確な敵さえ攻撃し続けていれば、自分は「無罪の側」の人間になれる。そういう感覚が、少なからず、誰にでもあるのではないかと感じる。

それを、わかっててやっている人については、まあ、別に構わないのかなとも筆者は感じる。それはネットの利用法の1つであり、匿名性を笠に着て強い言葉を吐くことでストレスの発散とする。そうやって、自身の精神の安寧を保つ。
褒められたことではないだろうが、それをすることで本当に自分がスッキリして、元気で、健康で、幸福に生きていけるのであれば、それは意義のあることだと思うし、最低限の節度を保っているのであれば、ネットの使い方としてはある意味正しいようにも感じる。

ただ、問題は、わかっていない人たちだ。
本気で「自分は悪くない」を信じている人たちにとっては、ネット上の意見・情報はさぞ美味しい毒であるだろう。自身と同じ意見だけを探して、見つけて、安心して、便乗して自分も同じように強い言葉を吐く。
あるいは、自身と反対の意見を述べる人を探し出して、衆目に晒し、気が済むまで石を投げつけて、正義感に浸る。
本気でそれが正しいと思っている人たちはきっと、一度そういう形態のネットの海に入り込んでしまえば、二度と一人では抜け出せないように思う。
気付きやきっかけがなければ、延々死ぬまで、頭の中の「敵」を攻撃し続けて、現実や実生活は何も改善していないのに、満足した気になって惰眠を貪るのだ。死ぬまでずっと、ずーっと。

筆者はこういった二律背反のようなネット上の諍いについては、自身がどちら側の立場であれ、感情を強く揺さぶられるようなことは滅多にない。
いくら頻繁に目に入ってこようとも、それは人類の(例えば女性の、男性の、親の、子供の)総意ではないだろうし、あくまで「ネット上にそういうことを主張している人がいる」というだけなのである。
もっと言うならば、その「ネット上の人」は、筆者の生活には一切何の関係もなく、ありていに言えば「本当にどうだっていい」のだ。

別に誰がどこで何をどうしていようとも、どんな思想を持ってどんな言葉を振りかざしていようとも、本当にどうだっていい。
それは筆者にとっては雨が降ったり雷が落ちたするのと同じくらいの「現象」であり、いちいち感想を抱くような気持ちにもならない。
言葉は恐ろしい、と思うと同時に、スマホの表面で光る文字に、一体どれほどの価値があるのだろうとも思う。
自身の人生に一切関わりのない人間が「タンパク質の塊」であるのと同じように、匿名の誰かが指1本で吐く言葉なんてただの「電気信号」に他ならない。
些末なことなのだ。本当に。

ネットはフリーアクセスで構わないと思うし、「こんな意見の人もいるんだ!」という気付きを得るための、情報収集の場としてはとても重宝している。
けれど、だからこそネットは、「敵と戦う場所」ではないと筆者は思うのだ。

敵は一体誰だろう?
男性か?女性か?親か?子供か?独身者か?既婚者か?政治家か?
それとも、自分自身か?

筆者が思うに、もしかしたら、敵なんてものはいないのではないだろうか。
人生は、「敵を倒すゲーム」ではない。
人生とは、「味方をどれだけ作れるかゲーム」なのだと、私は思う。

だから、「自分は悪くない!」の後に続くのは、「あいつが悪い!」ではなく、「みんな悪くないよね!」でいいのではないだろうか。

仮想敵を叩いて叩いて満足するよりも、顔も名前も知らない誰かの言葉を美しいと思ったり、行間の優しさに救われたり、そういうやりとりでいいじゃないか。それがネットで、いいじゃないか。
気の合う人たちと、穏やかに、のんびりと、文字を交換するだけでいいじゃないか。崇高な目標も、正義の暴力も、必要ないよ。
敵なんて本当はどこにもいないのだから。

今回はそういうお話でした。
ではでは、今回はこのへんで。


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