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私の親は毒親なのか?

こういう感じの記事が続いてしまって申し訳ない。
読んでて楽しい内容ではないのはわかっているし、そもそもが気持ちのいい題材・言葉でないことは理解しているのよ。
嫌いな人や苦手な人は、これ以上読まないでね。

これまで、毒親とか、毒親育ちとか、アダルトチルドレンとか、そういうことについて何度か記事を書いてきた。
でもそのうちのほとんど全てが、『育てられた子』としての視点で書いたものだ。
何故ならば、筆者は毒親育ちを自認しており、そして筆者はまだ子を持っていないからだ。(この先産み育てる可能性は多分にある。)

自身の体験談に照らし合わせながら記事を書くから、そこにはどうしても(当然ながら)私の主観が混ざるし、毒親から見た視点、について想像することはできるけれど、それを自分の気持ちを表明するのと同じようには書けない。
なので、今回は、私の親について、ちょっとだけ具体的なことを書いて説明してみて、そして『毒親』の視点でも少し物事を考えてみたいと思う。

何故こんなことをしようと思ったかというと、最近なんとなく、「自分は毒親かもしれない」という記事を見かける頻度が増えてきたからだ。
実際そういう投稿が増えているのか、それとも私の目に入る機会が増えただけなのかはわからないが、自分も将来同じ悩みを抱える可能性はゼロではないから、今のうちに考えておこうという話だ。

私と、私の親について。

私は『毒親育ち』を自認しているが、その言葉を使うのは、そうやって「相手にも非があった」と明言することによって、自分の心を軽くするためだ。100%自分のために言っている。(検索して共有しやすくするためのカテゴライズという面がないわけでもないが。)
子というのは、親子関係に何か問題が生じたとき、大抵の場合は真っ先に「自分が悪い」「自分がダメなせいで」と考えてしまう。
勿論、育ててもらった恩がある、感謝があるというのもそうだが、何よりも、子供は無条件で親を大好きになるようにできているのだ。生まれた瞬間から親のことが大っ嫌いな子供なんて、存在しない。
だから、親に酷いことをされたり、関係性が悪くなってしまった時は、真っ先に自分を責める。自分のせいで。自分が悪いから、と。

そういう理由で、私は、『毒親』という言葉は『毒親育ち』を慰めるためにあると思っている。慰めて、認めて、手を引くためにある。
仮にあなたに非があったとしても、それはあなただけのせいじゃないんだよ。あなたの親にも、少なからず問題があったんだよ。そういう『赦し』のための言葉。

だから、正直に言うと、『毒』という表現に嫌悪感を抱く人の気持ちも、わからないでもない。
ここまで育ててもらったのに。殺されることなく、大人になれて、生きていけているのに。
自分とは合わないというだけで、親に非がある部分もあるというだけで、『毒』呼ばわりするなんて、あんまりじゃないか。あんまりにもひどい言葉だ。
親だって人間なのに。そんな、心を切り裂くような言葉を、よくも。
そういうふうに思う気持ちも、わかる。

私の親については、別の記事でも何度か触れているけれど。
ああ、母子家庭で育ったから、『私の親』はつまり『母』を意味するんだけれどね。
まあ、神様のような人だ。というか、自分で神様を自称していた。
その人がすべて正しくて、その人が世界のルールなのだ。
「いろんな意見を受け入れる」と口では言うけれど、それは「いろんな人の意見を聞くことは重要だから」というポージングであり、内実は「はい。聞きました。でもよく考えて?私の言ってることの方が正しいの、わかるよね?」ということなのだ。

ただ、『毒』と呼ばれるほど人格に問題があり、激烈に酷い人間だったのかというと、別にそんなことはない。
めちゃくちゃ頭の良い人だったし、仕事も他の人よりよくできたのだと思う。そもそも、片親で子供を育てきったこと自体が、めちゃくちゃ立派だ。
私は1日3食ご飯を食べられていたし、布団やベッドで眠ることができたし、最終学歴は大卒だし、大人になるまで生き延びることができた。
そういう意味で、私の親は、親としての務めをごく真面目に、きっちり果たしたと言えるだろう。

問題だったのは、私の親自身の人格ではなく、私と親との関係性だ。
私たちは、コミュニケーションを上手くとることができなかった。
そのせいで、お互いに傷付けあった。
そして、どうしようもないところまで、関係が拗れてしまった。
だから私は、親を『毒親』と呼ぶようになり、縁を切った。

まあ、私には私の言い分がある。
私の人格を否定したり、私を社会的に辱めるやり方で私をしつけようとしたこと。その過程で、暴言や暴力があったこと。
恐怖政治を敷いておきながら、決して認めず(そもそも自分の非を一切認めない人ではあったのだが)、「子供が勝手に被害妄想で親を怖がっている、親のせいにしている」としらばっくれていたこと。
片親で経済的に苦しかったことについて、私は勉学に励み学費を一部免除してもらったり、あるいは奨学金を借りたりして最大限できる努力をしていたのに、その奨学金(学費以上の金額)を全てぶんどって生活費に回し、私が就職してからはあり得ない金額を仕送りとして求めたこと。
そして、「今までこんなに苦労してお金をかけて育ててあげたのに!」と私を詰ること。
仕送りと奨学金の返済と自身の生活でだめになりそうなくらい困窮していた私に対して、「もっと働いてもっと稼いで私を養え」と言い放ったこと。

言い始めるとキリがないのだが、私には私の言い分があり、親を恨んだり、拒絶したりしていたわけだ。
そしてもちろん、親にも親の言い分があるだろう。
聞き出そうとしても、「あなたに言い返されるのが怖くて口が利けない」だとか「あなたにわかってもらえてないショックで何も言えない」だとかの被害者ムーブが挟まるので、親の言い分をきちんと聞けたことはほとんどないのだが。
親の視点からすれば、「子が悪い」という言い分はもちろんあるだろうし、私も自分自身に非がなかったとは当然思わない。年齢的に考えても精神的に未熟な時期があったし、その浅薄さで親を傷つけたこともあっただろう。

なので、お互いに非があることは大前提として。
でも、それだけだったら、私は別に親のことを『毒親』だなんて呼ばなかったと思う。
親と気が合わない。仲の悪い親がいる。そのくらいの認識で、ずっと平凡に過ごしていただろう。

何故『毒親』と呼ばざるを得ないところまで拗れてしまったのかというと、前述したとおり、コミュニケーションをとることができなかったからだ。
随分大人になってからだが、私はコミュニケーションをとるための場を何度も設けた。
自分がされて嫌だったこと、自分はこうしてほしかったということを伝え、相手がどうしてほしいのかを聞き出す場だ。
結果として、上手くいくことはなかったのだけれど。

親の言い分はこうだ。
「お前が悪いと言ってるのに、そんなこともわからない人間に育ててしまってごめんなさい」
「お前は人間として終わっているのでもう何を言ってもダメ」
「そうやって親を責めて傷付けて、何もかもを親のせいにするだけの人生」
「私が可愛いと思っていた子供はもういない」
「私の人生で起こるすべての不幸はお前のせい、お前の人生で起こるすべての不幸も全部お前のせい。私は何も悪くない」

そういうことだ。
メッセージを送ろうが、電話をかけようが、直接会いに行こうが、コミュニケーションが全く取れないのだ。
私が拒絶したわけではない、これは、親による拒絶だ。と、私は思っている(私は悪くないという意味ではない)。
ここまではっきりと拒絶されると、私ももう、これ以上頑張ろうという気にはなれない。コミュニケーションはとれない、とらないままでいいと、思わざるを得ないのだ。
そうして、絶縁へと繋がるわけだが。

ここまで拒絶するということは、私が親のことを『毒』だと感じているのと同じように、親も私のことを『毒』だと感じているのではないだろうか。
私と同じように、相手のことを考えるだけで手が震えたり、心臓がどきどきしたり、涙が止まらなくなったり、夜に眠れなくなったり。
自分を守るだけで精一杯な状態なのではないだろうか。
そして、そこまで相手のことを『無理』だと感じているのなら、我慢して無理に関わる必要は一切ないのではないかと、私は思う。
そうまでして暴言をぶつけないとやっていけない相手なら、関わらないほうがずっとましなんじゃないかと。

・・・しかし、ちょっと考えてみる。私の視点ではなく、親の視点で。
暴言をぶつけるのは、自衛のためや相手を拒絶するためではなくて、ただ相手に対して甘えているだけかもしれない。
傷付けることによって虚栄心を満たしたり、気を惹きたいだけかもしれない。
そうなると、距離を置きたいわけではない、のかもしれない。
実際に腹を痛めて産んだ子供だ、今でも可愛くないわけがない、大切じゃないわけがない。絶縁なんてしたくない。
でも自分が下手に出ることはしたくない。謝って、敬って、戻ってきて、尽くしてほしい。私の暴言も暴力も受け止めてほしい。
今まで頑張って人生を生きてきたのだから、リターンが欲しい。子供は自分の成果物なのだから。私に何か良いことを返せ。私を気持ちよくしろ。だって、私は今までこんなにも、頑張ってきたのだから!

最後はちょっと違うかもしれないが、いやわからないが、このうちのどれかが正しいのかもしれないし、全部あってるのかもしれないし、全部違うのかもしれない。
私はコミュニケーションを拒絶されているので、わからない。
ただ想像するだけだ。答え合わせはない。

親のことを、本当は毒と呼んでいいような人間じゃない、というようなことを前述したが、実際は違うのかもしれないとも思う。
親は本当に頭のおかしな人で、自分のことしか考えられなくて、いくら話し合っても到底わかり合うことなんてできやしない、やばい人間なのかもしれない。
だとしたら、こうやって考えることすら、時間の無駄なのだが。
そうではないと、今のところは思っているし、そうではないと思いたい部分もある。
100%客観的に、冷静に見て考えることは、私にはまだ難しい。

で、ここまで書いてきて、思ったのだけれど。
やはり、「毒親か否か」を分けるのは、「コミュニケーションがとれるかどうか」だと思う。
例えば本当に傷付くことをされたとしても、「嫌だ、やめて」と言うことができて、嫌がっているということを理解してもらえて、「ごめんね、もうしない」あるいは「ごめんね、でもやめられないから少し離れるね」というやり取りができるのであれば、それは毒親ではないと思う。
子供のことを同じ人間だと思っていなくて、あるいは実子だけでなくあらゆる他人に対して傾聴したり尊重したりすることができなくて、そのせいで親子のコミュニケーションが成り立たないのであれば、それはもう毒親と呼んで差し支えない、と私は思う。

だから、もし、「私は毒親なのかもしれない」と悩んでる人がいるのならば、まずは子供をしっかりと見て、子供の言葉をしっかりと聞いてほしい。
一人の人間として、子供のことを扱ってほしい。
それができるのならば、その人は毒親ではないはずだ。
あるいは、今までそれができなかったけれど、できていないことに気付いて、改善しようとしている。自分とも子供とも、向き合おうとしている。そういう場合は、その人は毒親だったかもしれないが、今はもう毒親ではないと言えると思う。
その結果、子供との関係性がよくなるとは限らないが。

私も、もしも私の親が「あなたの話をちゃんと聞く。あなたとの仲を修復したい」と思ってくれているのならば、今までのことを許すかどうかはさておき、向き合いたいとは思っている。
勿論、期待はしていないし、あてにはしていない。していないから縁を切ったわけだし。
でも、私だって、親のことを毒だなんて呼びたいわけではないし。
例えば、仲良くできる未来があるのならば、それも悪くはないと思っているよ。
今はまだ、「悪くはない」なんて言葉しか出ないけれど。
これからもそうなのかもしれないけれど。

親による子供のしつけや教育は絶対に必要だし、親子では(年齢的に)精神のレベルが違いすぎるから、難しいことだとは思うんだけどね。
私も子供を産んだら、ここに書いてることなんか全部忘れて、ぎゃーぎゃー怒るだけの親になってしまうかもしれないし。
でも、子供をその人格ごと否定したり、人生を奪ってしまったりしないように。
ここに書いたようなことを、忘れずにいたいと思う。

子供に限らず、他人とのコミュニケーション全般に言えることかもしれないけどね。
関係性やレッテルを見るんじゃなくて、その人そのものを見るようにって。
難しいけどね。
でも、努力できることだと思うから。

うん、今回はそんな話でした。
しばらくは毒親関連の話はもういいかな。ちょっと疲れてしまった。
また何か考えが変わったりしたら、書くかもしれない。

では今回は、このへんで。


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