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自然とどう向き合っている?

自分にとって子供の頃から最も馴染みのある公園と言えば、「栗林公園」(りつりん公園)。耳から入り、会話の中でよく聞いていたこの公園。私が子供の頃、動物園があって夏休みに祖父母の家に遊びにいくと必ず連れて行ってくれた。今月友人と行く機会があり、奇跡的に人がいない掬月亭内から高松藩の藩主が楽しんだ、という景色を撮影できてラッキーだった。満月を楽しむ企画もあり、結婚式が行われ、先日は知り合いになった方から誘われて早朝ヨガも体験させてもらった。栗林公園は楽しみ方が多様で飽きない。

栗林公園は、池の周りを一周散策できるほか6人乗りの和舟で、池の中から風景を楽し無ことができる。今回初めて乗ってみたけど風情があってとっても良かった。そして地形を活かしたデザインで日本庭園を造った人たち、わがままを言ったであろう当時のお殿様やお姫様の美意識の高さに感動する。基本園内には約1400本の松があるらしく、松の木の剪定始め手入れが行き届いていてこの公園が大切にされていることを体感できる。和舟の船頭さんの説明も栗林公園に対しての愛情を感じた。

馴染みのない人からすると「くりばやし公園」と読んでしまうようで、今更ながら確かに自分も初めて旅行するならそう呼んでしまうに違いないと思った。目で文字を何回も見ているにも関わらず、そう言われてなるほどと思うとは人間の脳に子供の頃インプットされた情報は、なかなか違う視点で見ることが難しいのかもしれないと思った。

子供の頃から、「当たり前」だと思っているけど実は当たり前ではないこと、昔は当たり前だとされていたけど、今は違うということが世の中には多々存在する。というか、常識ってなんだ?とさえしてくる。頭を柔らかくするために、他者と対話することの大切さを感じる。

話を戻すと、日本庭園は地形を活かして自然と共存しながら自然を楽しむ、と言うコンセプトを強く感じる。まずは自然ありき、その後に人間がいて自然を楽しむために手を入れる。外国の庭園に行くと、自然を征服して整然と徹底的に作り込まれている。そもそも自然との向き合いと関係性において、日本とヨーロッパの国々との違いは興味深い。気候や風土が人類にもたらす影響はとても大きいのだろう。西洋ではまず神様がいて「光あれ」で世界ができるけど、日本では自然が先にあって神様が生まれているのは大きな違い。

例えば月明かりを楽しむって他の国でもやっているのだろうか。太古からいろんな国で太陽を神様として崇める、と言うのはあるけれど満月を楽しむ、月を楽しむために庭園を整えると言うのはとても日本らしい感じがする。Wikipediaを読むと中国では街を上げて夜通し騒ぐ、とか月餅を送り合うなどの習慣がありそれが日本に渡ってきたと書いてあるけど、日本に入ってきてどんどん日本風にアレンジされてきたんだろうな。

太陽と同じように、月もパワーがあると言うけれど太陽の方が断然わかりやすい。冬の日の日向と日陰の差とか、ロサンゼルスに行った時の日中と朝晩の気温差とか体験すると、大昔は自然の中で生活していると本当に死活問題。身体が冷えて死んでしまうと言う危機感があるような状況は、体験したことないけれど想像できる。冬の日の朝に太陽が燦々と輝くとエネルギーが注入されるように思うし、逆に夏はエネルギー強すぎて体調崩してしまうこともある。死んでしまうこともある。有難さと怖さがとてもわかりやすい。

一方で、月は今ひとつそのパワーがわかりづらい。ただ個人的に体験したことで、昨年の年末に風邪気味で寝ている時、窓から刺す月の明かりで目が覚めてそのパワーを感じることができた。太陽みたいにエネルギー注入、と言うよりは柔らかくじわっと解されるような感覚。熱くもなく冷たくもなく、浄化される感じ。

中秋の名月をちゃんと準備して味わったことがないけれど、今回栗林公園に来て来年はお月見を真剣に楽しみたいと思わせてくれた。ここで一句、、、、、と詠めるようになるために俳句でも勉強しようかと思った9月の週末。

そう考えて「月」に関する俳句を探してみたら、小林一茶の「名月を取ってくれろと泣く子かな」と言うのがとても共感できた。泣く子供に共感(笑)








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