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感情の壁プロジェクト#1 ーわたしたちは感情の壁を超えれるかー

今月の頭から、感情の壁という企画をはじめた。

することはシンプルで、グーグルのアンケートを使用して、みんなから”今の感情、叫びたいこと、伝えたいことを、大きな声では言えないこと”を匿名で書いてもらう。それをぼくがふせんに書いて、壁にひとつひとつ貼っていく。トップの画像が現段階。そしてそれぞれのふせんは以下のインスタアカウントに投稿してまとめている。またわたし個人のTwitterにもまとめている。

友人たちがいいねいいねと参加してくれたり、拡散してくれたことでどうにかいま100を超えた感情があつまった。100を超えた時点でコンセプトとか思ったことを書かなくちゃなと思っていたので、ここでいったん書き出しておきます。

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そもそも、このアイデアのベースになったのは、昨年行った香港での光景だった。知っての通り香港は民主化デモの真っ最中で、コロナで右往左往している今も進行している。そんななか、父と二人で香港に行った。現場では何が起きているのか、人々はいま何を思っているのか、それを知るためにはインターネットで見つかるもの以上のもの、またweb上では語られないものを直接見る必要があった。

現地にいる友人にいろんな場所を案内してもらった(森さんありがとう!)。学生たちが立て篭もった大学。焼け跡が残った校舎、無理やり剥がされたポスターや黒塗りされた落書き、ショッピングモールに立ち並ぶ重装備の警官たち、理想と現実の間で悩みながらも笑顔を絶やさない同年代の香港の人々、現実がそこにあった。

案内してもらうなかで、いろんな店舗に貼られたふせんが目に入る。上記の写真のものだ。それはデモを支援するひとたちの声だった。広東語で書かれた大量のふせんのなかに、ちらほら日本語も見つかる。ぼくもコメントを残しておいた。何って書いたは覚えていない。だけれど、いまでも自由を手にするために動く人たちを応援している。応援しかできないけど、応援したい。

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自分の気持ちと付き合うためには、自分の気持ちを見なければならない。それはしんどい行為かもしれないけれども、心に沈めたままでは、きっとその感情は腐ってしまう。腐った感情は身体の毒になる。

そして言葉は感情を形にすることができる。色や形で表すこともできるけれども、言葉は共有ができる。なぜなら言葉は多くの人が持っているものだから。言葉を上位に見ているわけではない。みんなが絵や写真を日常的に扱っていたらそれでもいいと思う。それも見たい。ただ、言葉を使う人が多いから、言葉を扱うというそれだけだ。また共有と言ったが、ぼくは言葉をもって共感できるとは思わない。人の言葉は感情を伝えるのではなく、相手の感情を震わせるものだ。感情が伝わるのならば、この世の中はもうちょっとマシなものになっている。だから誰の感情も共感することはない。

香港で見たふせんの言葉は、意味はわからなくてもぼくの感情を震わせた。そしてぼくは書いた言葉は忘れたけれど、応援したいという感情を知った。その感情はまだ心に残っている。

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新型コロナウィルスは世界を変えてしまった。それはもう紛れもない事実だ。収まってよかったね、また前の日常が戻るね、なんてもう思っていない。事実、ぼくにとってのお気に入りの場所は思い出の場所になってしまった。これ以上失われるものが少なくあってほしいという希望と、すべてがもうなくなってしまうんじゃないかという絶望と、その中間で揺れる現実のなかで、自分の感情が失われていくことに気づく。しかし、ほんとうにそうだろうか。

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感情は、ある。

ぼくはそれを仏教で学んだ。仏教は感情を消すような思想ではない。感情を見つけ、見つめる、認識する思想を持った宗教だ。怒ってはいけない、ではない。怒っている自分を見つめるのだ。なぜなら、怒っている人のすべてが怒っている自分に気づいているわけではないからだ。

感情は馬だ。しかも飼い慣らされた馬ではなく、野生の馬だ。そして私たちは馬乗りだ。ときとして馬は暴れだす。馬乗りはそれを制御してもいいししなくてもいい。ただ馬は大暴れするので、馬を放置すると怪我をする。ときとして命を失うかもしれない。しかし暴れる馬を抑えるすべを知っていたら、少なくとも命を失うことはない。そして馬と交流することができれば、穏やかな気持ちでともに歩いていける。もしかしたら、馬が素晴らしい世界まで導いてくれるかもしれない。

馬を放置するのはよくないことだが、もっとよくないのは、牛を殺してしまうことだ。そのとき馬乗りは、フンの民族のように自らの足で歩いていけないことに気づく。彼の世界は閉じていく。

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こういったさまざまな思いから、感情の壁プロジェクトをはじめた。なかば見切り発車だったけれど、それでも興味深い感情はたくさん集まってきて、夜にコツコツペンを走らせている。

そして、この感情のまとまらぬ今このときこそ、感情をまとめることが大切なんじゃないかと思っている。すくなくとも、形にすることに意味がある。そして、いまみんなのなかにある感情は、それが綺麗なものであっても醜いものであっても、重要なものだと思っている。少なくともわたしたちは、いま言葉にしたことのない感情を抱えて疲弊している。それを、0.000001%でもいいから軽くするために、感情の馬に振り落とされないように、このプロジェクトをもうすこし続けていこうと思っている。

もしよろしければ、みなさまもご参加ください。


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