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怒りに蓋をする話

いつ書いたかわからないのだけど、結構長いこと書いているのでこれも残しておこうと思う。

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再三朝起きられないと嘆いていた私だが、今日は6時過ぎに起きられた。6時、6時って言ってるけれど、普通の人からしたらさして早くもないかもしれない。SnowManも歌ってますしね(ブラザービート参照)。それでもとにかくロングスリーパーの私からすると早いのだ。とか言って、12時に寝ると宣言してベッドに入ったものの結局1時半くらいまで眠れなかった。にもかかわらず6時に起きて勉強することがちゃんとできた。すごくない? と自分で自分を褒めてみる。「持続する怒り〜」で書いた「脱却!」を枕元に貼って寝た。「今日のがんばりが幸せへの積み立て」という言葉も一緒に書いておいた。それを見てなんとか起き上がり、喉が渇いたな、とせっかくだから白湯を飲んだ。大人女子っぽいことしてる、となんだか気分が良かった。白湯のおかげか頭はすっきりし、勉強も捗った。

「脱却!」という文字を見た時、思った以上に血が沸るというのだろうか、「やったる!」という気持ちが強くなった。やはり私の原動力は怒りかと思うと虚しい気もするが、一緒に添えておいた「〜幸せの積み立て」にも背中を押され、1日が始まった。

今日は苛立ちが少なかった。昨日の夜から「明日は映画を観に行く!」と決めていたし、それを励みにがんばれた。怒り以外のものに体重をかけてみると、ちょっとわくわくする。普段はわりと、猛烈なストレスにさらされている最中に「もう⚫︎⚫︎しないと無理!」と逃げ道を作る。それはそれで助けにはなっているけれど、怒りが根を張るというか焦げ付くというか、つらい気持ちが強くなってしまう。あまり気にしていなかったけれど、家を出る前にご褒美を決めておくと耐えられる重量が変わるような気がする。

臭いものには蓋、という言葉がある。あまりいいニュアンスで使われる言葉ではない。「見なかったことにして」ということだから。見ない方がいいもの。不正とか、汚物とか、いろいろ。ゴミ箱に捨てるみたいにどんどん蓄積して、下の方から腐敗していくだろうか。だんだん蓋の意味もなくなるくらい悪臭がして、ゴミ箱ごと捨てるのだろうか。

では私が怒りに蓋をしたらどうなるか。多分良くないガスみたいなものが発生して、ゴミ箱が破裂する。ぶちまけたのが紙ごみだけだったらまだしも、破片みたいな尖ったものが、自分だけではなく誰かを刺すだろう。

怒りを溜め込むことはいいことではない、というのは言うまでもないことである。怒りとは違うかもしれないが、反骨精神という言葉もある。怒りより悔しさが勝つだろうか。負けず嫌い。私自身はあまり負けず嫌いではない。競うのは苦手だ。でもやるからには勝ちたいという、中途半端な負けず嫌いだ。私の基準にあまり他人はいない。誰かを見返したいとかそういう気持ちもない。誰かのために働いているわけでも、勉強しているわけでもない。特定の相手に喜んで欲しいと思ったりすることはあるが、それも一方的な独りよがりで、自分本位な感情だ。強いて言えば、できることが増えていない自分に憤ることはある。昨日教わったのに、とか、この間勉強したところなのに、といったふうに、一度通過した箇所が身についていない時には悔しい気持ちになる。

職場で怒りに打ち震える時は、結構特定の誰かにストレスを感じているように思う。他人基準のあまりない私にとって、横から他人が押し入って来ることはおそらくとてつもない嫌悪だ。いや、結構、複数に対し「こいつら……!」と思っていることもある(笑)。我ながら定義が難しい。協調性がないわけではないし、むしろ従順な方だ。でも本当はあまり興味がなかったりする。基本的に他人といる時はがっつり他人に合わせるから、自分のことを訊かれてもいつも答えに困る。あまり自分の考えを分け合おうとしないたちだ。パーソナルスペースがはっきりしているというのだろうか。だからそれを突き破ろうとされると殻が固くなる。殻に弾力があれば跳ね返せるけど、私の殻はきっと固くて、ボールペンでも突き立てられたらそこからパキッとひびが入って割れてしまう。怒りを原動力にするタイプは殻が硬いのかもしれない。弾力がある人は順応性があって、外部からの力を柔らかく吸収し、強く押し返すことができるのだろう。じゃあこの殻が柔らかくなる方法はあるか。わからん。でもどうなんだろう。周囲とちょっと隔たりを持っている自分、というのも実はそんなに嫌いではない。友だちはいらない、とかそういうことを言っているわけではなくて、距離を取って周りを見ている自分をわりと気に入っているのだ。

もうちょっとしなやかでいられたら、と思うことはある。笹かなにかみたいにきれいに反って、また元に戻るような。私は1回折れるとまではいかないものの、割れ目みたいなちょっとした傷を作って、与えられたストレスを目視してしまうから、余計にストレスがかかる。でも今、昔作った傷跡を見ると、懐かしく、なんだか愛おしいような、逆に穏やかな気持ちになる時があるから不思議だ。「持続する怒りと〜」で書いた気がするが、痛みを忘れるなんて、自分はバカなのかもしれないと思ったりもする。けれど昔負った痛みは、ロジックがわからないことがあって、なんだか拗ねた自分を、おもしろいような、大切なような、そんな目で見てしまう。


以前いた職場で、私が入社する前のデータが間違っていることに気づくことがしばしばあった。「パンドラの箱を開けた」と言われ、「見なかったことに」という流れになるのだけど、エラーに蓋をしてもモヤモヤは胸に残った。

怒りに蓋をしてしまうと、その怒りはゴミ箱の中でぱんぱんに膨れ上がり、蓋をしたところで、見えなくはなるけど体の中で、心臓のあたりで、違和感を感じざるを得なくて、炎の属性を持った怒りが怒りに引火して爆発する。思えばそんなことを繰り返した人生だ。人間の我慢には限界があって、溜め込んだ分、爆発が大きくなる。

怒らないで生きることは難しい。時々「まいっか」で片付けられるという人がいるけど、その考え方は私には馴染まない。なぜ怒るのかということは自分の胸に問うた方がいい。自分を知ることは大切だ。


「自分のことは自分が1番よくわかってる」と言ったり、「他人が見た姿こそ真実」と言ったりする。私は「自分のことは自分が1番よくわかっている」と思っている。他人が見た私が、あまりに見当違いなことばかりだからだ。あり得ないことを平気で「いえろーは⚫︎⚫︎だもんね」と言われたりする。それはおそらく私が本音を晒さないからだが、とんちんかんな考察に嫌気がさすことが多い。一緒に働いたこともない人に「あなたの働き方だったらこれが合ってる」などと言われたらいい気がしない。私がなにをしてきたか、見てもいないのだから。だから他者も、「自分のことは自分が1番良くわかっている」と思っていると考えている。とはいえわりと他者に対し、「この人、正論ぶってこういう意見出してきているけど、本当は欠点を隠したいんだな」と、多分その人がコンプレックスに感じているだろうというところをあぶり出して見ているところがあって、この考え方を「所詮他者が見た意見だろ」と言われたらそれまでだが、あまり「この人は⚫︎⚫︎」みたいなことがない。正直に言おう、他人のことなんかわからない。露骨に顔や態度に出る人がいるけれど、そういう人は苦手だ。もしかしたら他者を理解しようという気持ちが薄いのかもしれない。と思うけれど、不機嫌になってその機嫌を他者に取らせようとする考え方を好む人はいないはずだ。ずっと前に本で読んだ「自分の機嫌は自分で取るのが大人のマナー」という言葉を信じている。だからなおさら、周囲が見た私の姿は感情の読めないよくわからない人なのかもしれない。


怒りに蓋をしたのが友人など身近な人であれば話は別だ。どんどん吐き出してくれ、と思う。親しい人に鬱屈した気持ちを抱えて欲しくない。蓋を開けて中身を引っ張り出し、炎上寸前の気持ちに水をぶっかけて消してやる。もしくは一緒に焼き尽くしてやる。相手がこれ以上の苦しみを味わう前に。だから、つらくなったら会いに来てね、と彼らには心の扉を全開にしている。基本閉じがちな私には非常に珍しい心持ちだが、そんな気持ちでいる。でも誰かに打ち明けるのがなかなか難しいのはわかってるつもりだ。自分自身がそうだから。だからこそなのだが、打ち明けるのがつらかったら、なんとなく会いに来て欲しい。いえろーは相変わらずだなって、なんとなく笑って帰って欲しい。そんなおもしろい人間でもないけど、黙ってそばにいるだけでいいならいくらだってするから。


怒りに蓋。して欲しい人とそうでない人がいるけれど、そんな自分勝手な向き合い方をしながら、ちょっと自分のゴミ箱の蓋を開けて、たまには分別でもしてみようかと思う。大きすぎる怒りは、みじん切りにして生ゴミと一緒に捨てよう。落ち着いた気分の今なら、大事にならずに向き合えるだろう。それを期待して、いざ蓋を開けてみることにする。多分今は、仕事と過剰に勧められる婚活についての憤りが眠っているはずだ。


(2024年7月20日(土) 11:18 加筆修正)

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