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新型肺炎の自宅待機から考える家族互助の限界点

 家庭内感染が起こりうるのに、罹患者は自宅待機という問題。介護など、かつての大家族と違って今の家族には余裕がない。

 社会保障の末端部として家族を利用することには大きな無理があり、国家・社会が保健福祉の役割を担い、公的サービスとして提供しなければならない。今回も、家に押し込めて家庭内感染してもいいから外に持ち出すな、と言うのは、本来全体の問題である新型コロナウイルスを、家庭に不当に押し付けることに他ならない。社会の他の人が感染したら困るけれども、家族が感染する分には構わないから、家に待機していてくれ、というのは即ち、国が社会福祉の義務を放棄して、家庭に丸投げしているに他ならないわけである。

 家に閉じ込めて丸ごと燃やすというのは、確かに黒死病の時にも実績がある確実な感染問題解決策ではあるのだが、高い税金を取る近代福祉国家がやることがこれでいいのかと言う問題は提起されるべきであろう。ここは、中世ではないのだ。税金を取っている以上、国は国民=納税者に手厚く保護を与えるべきではないか?

 今回のコロナウイルスの件については、今すぐに国がどうする、と言うことができる問題ではなく、自宅待機についてはやむを得ない面があると思うが、ぜひこの機会を契機として(と言うと不謹慎かもしれないが)、国家が家庭に負担を負わせる構造を是正し、家庭の形の変遷に合わせたより良い政策を取る必要がある。そもそも、独身者いる状況において、複数人からなることを前提に組まれている家庭互助と言う者が成り立たなくなっていくのは明らかだろう。その上、複数人からなっていても老老介護が起きてしまっている場合があるわけである。

 この国は、大きな衝撃を受けない限り変化ができないように見える。ならば、この件を契機として、家族と言う価値観の見直しを行うべきではないか。結局、高度経済成長期以降の核家族化によって、家族に頼る自助社会はモデルとして成り立たなくなった。その団塊世代が高齢者となった現在、今までは誤魔化し続けられていた問題が表出した。(そもそものところ、核家族は一次産業を母体としなければ成り立たないのではないか?二次産業は構成員個々人を部品とするのであって、総体としての大家族をさして必要としない。少なくとも、各地に散らばっていた農業社会から集約的な産業社会に移る段階で、大家族が分解され核家族化が進行していくのは当然のことである。かつて国の発展に貢献したそれらを、無視するというのは適切ではないだろう。)一部の方々は、伝統的家族観(それにはきっと互助も含むのだろう)を非常に大切だと考えられているようだが、少なくとも、明治のような家族観が成立しえないことは現況から見ても明らかであろう。一緒に住んでいないのに、どうやって日常緊密に助け合えというのだ?自分の仕事があるのに、どうやって家庭の仕事(家業あるいは介護など)をしろと言うのだ?たまにしか合わない親戚と、一緒に暮らしている家族と同程度の絆を築き得る人は少ないだろう。

 そして、日本の大きな問題点として、家族は身内だから、という意識があげられる。身内だから、暴力も教育のうち。身内だから、助け合うべき。身内だから、無キュウで手伝って当然。身内のことは身内で処理しろ。身内だから、、身内だから…。(そう考えると、日本のジェンダー問題については、身内だから、の問題も関係しているのかもしれない。どうも、身内だらの圧力をより多く受けているのは女性のような気もしないでもない。が、今回の趣旨からは外れる議論であるので、また後々論じることとしよう。)保育士が、子どもを別の保育所に預けながら働くのが、現在の分業社会であり、そこで身内にすべてをゆだねるのは(一億総活躍の点から見てすらも)適切であるといえよう。


 結局、一次産業から二次産業へとシフトした時点で、家族に社会福祉の末端を担わせることは出来なくなった。それを知らずに担わせているからこそ、介護殺人、介護疲れといった問題が起きてしまう。

 身内だから、の意識は社会に蔓延し、その結果、家族にすべてを押し付ける日本の社会が生じている。他人の対義語が、私ではなく、身内になっているわけだ。

 その結果、「他人に移さないために、自宅待機してください。公の施設である病院にも来ないでください。自宅で待機してください。家族に移ってしまう?そんなの身内の事でしょう。」と言うことを意味する自宅待機がまかり通っているわけだ。(もっとも、現在の状況で病院に受け入れることが医療崩壊を招きかねない行為である以上、自宅待機を要請することはもっともであるが、それでも家族に負担を押し付けている構造が変わるわけではない。)

 今ゴチャゴチャ言ってもどうしようもない、だからこそ、その後を考えようと言っているわけである。ここで対処ができるのは専門家であり、外野がうるさく言うのは害にしかならないこともある。しかし、国家百年の計を考えるのは、専門家のみならず、国民と政治家の仕事でもある。一つの出来事から、様々な教訓を得ることで、より良い社会をつくっていけるわけである。

 であるから、他人事と考えずに、我々一人平折が考えていかねばならないし、政治家諸氏には、より考えていただきたい次第である。

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 この文章は、勢いで書き上げた文章であり、様々な誤り・問題・至らない点があると思います。皆様からご指摘をいただき、訂正・向上させていきたいと考えております。

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