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好きなものは詳しくないといけないのか

あなたには自信を持って「好き」と言えるものはありますか?

僕の友達はここ最近までそれがありませんでした。否、なかったと言うより、「好き」と認めてなかったに近いのかもしれません。

ここではその友達をKさんと呼びます。Kさんは好奇心が旺盛で、どんなものや人にも興味を示し色んなことを体験している人です。僕はKさんから多くのことを学び、とても尊敬する人の一人です。

そんなKさんは、人に会い、考えに触れるごとに自分には好きなものがないと考えるようになりました。好奇心の高さゆえか、深く狭くより広く浅くを経験してきたKさんは自分が関心を持ってきた狭く深くの人たちと自分を比べてしまったのかもしれません。

Kさんの悩みを聞いた時、僕は「好きと言えることのハードル」が現代ではとても高くなっていると感じました。

より多くの情報を入手できる今、まさにDigることで自分の関心物がその人自身のアイデンティティを形成することが一般化してきました。「あの人といえばこれ」、「これといえばあの人」という=形式を持つことが一つのステータスでもあり、自分自身の支えになるのです。生業とまではいかなくとも、一つの「好き」があるだけで人は己を確立できます。

そのこと自体には僕も不満はありません。が、他人がよく見えすぎるこの時代性ゆえに「好き」のボーダーラインや階級が生まれていることに疑問を感じています。

「料理が好きだけど得意じゃないし…」

「建築デザインが好きだけど建築家や歴史はあまり知らないし…」

この「好きだけど」の呪いはとても強力です。「好きなものならこれも知ってなきゃ!」「好きなものならこれも出来なきゃ!」は無いはずなのです。確かに専門的な知識や熟練のスキルを持つことで「好きである」ことの補強材料にはなり得ます。

しかし「出来ないけど好き」「詳しくないけど好き」が成り立つことはとても難しくなっているように思います。時代や日本人の特性、知識やスキルを持つ人たちの存在、はたまた自分自身の思い込み、成り立ちにくいのには色んな原因があると思います。一概にどれがとは言い切れません。

ただ僕が言い切れることは、好きなものに対し詳しかったり秀でた何かがある必要は一切ないということです。

詳しいだけで好きと言えるのであれば、誰しも義務教育で習う社会や理科はかなり好きな部類に入ります。

三回くらいしかリフティングができなくても、サッカーが好きだと胸を張っていいのです。歴史やアーティストのバックグラウンドを知らなくても、音楽が好きだと言っていいし、年に数冊しか読まなくても読書が好きだと言っていいのです。

大切なのは、自分と相手の好きを快く受け入れることです。「好きなんだけど、まだよく知らないんだよね…」に対して、「知らないで好きと言うな」ではなく、「好きなことを、これからさらに好きになれるなんて素敵じゃないか」と返してあげたら、その人の好きはさらに深まっていくと思います。

僕自身、Kさんや周りの人のおかげで自分はファッションが好きであると胸を張って言えるようになりました。よくあることなのですが、自分は好きと言えるほどではないが、周りから見たら「え、あなたはこれが好きだと思ってた。」と言われる場合もよくあります。

僕よりファッションのブランドや生地や縫製、コレクションを見て体験して知っている人なんてごまんといますし、三度の飯よりファッションを考えている人もいるでしょう。

僕はそこまで精通しているわけではないし、頭の中がそれで埋まり尽くしてもいませんが、好きなことには変わりはないです。

人は色んなものに心を動かされます。動かされた時点でもう好きと言っちゃって言いでしょう。好きなものが多くて困ることなんてほとんどありません。多少オカンがかかるくらいです。

繰り返しになりますが、好きに優劣も深度も関係ありません。誰もあなたの好きに口出しをする権利は持ち合わせてません。


その上で聞きます。あなたには自信を持って「好き」と言えるものはありますか?



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