「雰囲気ステラおばさん」と「天然知能」について

ロバートのネタに、「雰囲気ステラおばさん」というものがある。説明するよりも、動画を見てもらったほうがわかりやすいので以下をどうぞ。

https://youtu.be/HpPHR3PsIps?si=jHr_WEyBUj-v4Edh


要は、「それっぽい人名」と「それっぽいスイーツ名」を組み合わせることによって、「ステラおばさんのクッキー」に匹敵する独自のニュアンスをもった新語をクリエイトしようという内容である。

我々が抱く「ステラおばさんのクッキー」像は、アメリカの田舎町、ふくよかで柔和なおばさん、量り売り、カントリー調の内装など、総合的なブランドコンセプトから培養されたイメージである。なので、単純に「ステラおばさん」+「クッキー」という単語のキメラから物語を自家発電しなくてはならない「雰囲気ステラおばさん」は、最終的な楽しみ方をこちらの深読み力に委ねられている。

先日読んだ「天然知能」(郡司ぺギオ幸夫著)が大層おもしろく、その中に「特別に訓練されたカブトムシ」というキーワード(パワーワード?)が出てきた。

これの示すところと、「雰囲気ステラおばさん」が目指そうとしている地点はおそらく同じ世界にある。嬉々として同じものを見ている。

ちなみに郡司氏の本を読むのはこれが初めてだが、すっかり好きになってしまった。しかもご本人の写真がどれも真面目な湯上がりみたいな感じで、思想と全然関係ない部分で面白くなっている(板尾創路が出てくるだけでにやけるのに似ている)つい先日、シリーズケアをひらくから出ている「やってくる」をポチって、届くのが楽しみで楽しみで仕方ない。

本書に登場する「天然知能」とは「人工知能」、「自然知能」に次ぐ 第3の知能形態であり、人間が人間らしく生きるための最後の砦である。
自己の利害関係に基づいて対象を価値判断する「人工知能」、世界に対する自然科学的な知を充足する「自然知能」に対し「天然知能」はというと「世界を、受け入れるだけ」。場当たり的に到来する外部を遊び、遊ばれる知の形である。「天然知能」の最大の特徴は、「何かがやってくる」ことに胸ときめかせ、「向こう側」の気配にワクワクするということである。

郡司氏によれば、あまりに合理的、因果的規則を強制され続けたわれわれにとって、必要なのはこうした「天然知能」であり、「やってくる」外部を感受する力であるという。

そこで、「特別に訓練されたカブトムシ」という言葉、ないしそこから我々が得る感情は「天然知能」の発動を示す具体例であるとともに、われわれを試しているのである。
「特別に訓練されたカブトムシ」には「特別に」+「訓練された」+「カブトムシ」以上の何か、外部や「向こう側」としか言いようのない何かが充溢している。

「特別に」とは、通常の仕方ではない何か、「訓練された」は、或るスキルを繰り返し習熟してきたこと、「カブトムシ」は日本にいる大型の甲虫、というように。しかし、これらの単語が一つにまとめられ、「特別に訓練されたカブトムシ」と言われた刹那、そこには、なにか禍々しく、胡散臭く、でも妙に愛嬌のある、特別の存在として立ち上がってくるものがある。このような存在の立ち上がり、それは、広義の文学であり、アートであり、そして、生命なのではないでしょうか。

(郡司氏のHPより:http://www.ypg.ias.sci.waseda.ac.jp/concept.html)

ヒエロニムス・ボッシュの絵に登場する使い魔のような、人格を持ったリアリティーが醸し出される。ここへきて我々は気づくのである。実は「特別に」の縁にも、「訓練」の縁にも、「カブトムシ」の縁にさえ、観測者が立ち、外部性を潜在し、外部と繋がっていたことに。自然言語全体の縁にだけ外部性があるのはなく、内部のいたるところ、語の一つ一つにスキマがあり、外部への通路が開かれていたのだ。だからこそ、特定の単語の布置によって、外部性が召喚され、「訓練」の通常の意味や「カブトムシ」の通常の意味を覆してしまうような、そういった外部性が共鳴し、まさに特別のリアリティーが立ち上がるのである。

(共創学会HPより:https://nihon-kyousou.jp/event/sfcc2017/)

単語同士を「意味の組み合わせ」として見るだけでは他にありえた可能性は見えてこない。突如「やってくる」、突拍子もない外部こそ「創造性」であり、「特別に訓練されたカブトムシ」の本質である。

これを踏まえて「雰囲気ステラおばさん」を見直してみる。
すると、「ステラおばさんのクッキー」という言葉によって「ステラおばさん」+「クッキー」よりもっと他の何か、単語と単語の裂け目から染み出す、よりクリエイティブで核心的な「ステラおばさんのクッキー」性に迫ろうとしている。これは極めて「天然知能」的な活動であることがわかる。つまり、できあいのイメージから成る「印象の出来レース」ではなく、A+Bから♨︎が生まれましたみたいな、誰も予想だにしないイメージが召喚されてしまうことはエンターテイメントで、ロバート(というか秋山)はそこを面白がっているのだと思う。

余談:「新宿コズミックセンター」など、カタカナ+漢字の組み合わせが椎名林檎っぽさを醸すという説がある。それ自体では閉ざされた言葉同士が無理やり出会わされたせいで、「初期の椎名林檎っぽさ」という外部が生じてしまう現象である。この件について調べたところ、発端はやっぱり秋山竜次だった。もう確信犯なんじゃないかと思う。



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