見出し画像

こわれた眼鏡と君の嘘

あの年の4月は、桜の開花が遅かった。オレンジの中央線の窓の外を流れる釣り堀に、儚いピンクのアーチがかかる。東京の青空がやけにまぶしい。

灰色にそびえたつビルの10階。そこが、大学を卒業したての私が嬉々として入社した会社だ。広告代理店の営業部門。新入研修という名のもと、始業から就業まで受話器を握り決まったセリフを繰り返す。それが、私たちに与えられた最初の仕事だった。

10名いる同期のなかで、とびきり仕事ができない男の子がいた。仮に、Kくんとしよう。


彼は、事務作業が壊滅的に苦手だった。ある日の夕方、先輩に引っ付いて回るだけの外回りから帰社すると、Kくんがデスクで腕組みをして座っている。眼鏡をかける視線の先は、入社翌日に支給されたノートパソコン。

「……どうしたの?」と、微動だにしない彼の腕に顔を近づけパソコンをのぞき込むと、「ああ、おつかれさん」とKくんは金縛りが解けた犬のように笑った。

眼鏡を外して、たまった眼球のコリをとるように目頭を指でマッサージする。普段はコンタクトだったはずの彼が眼鏡ということは、それなりに社会人疲れしているのだろう。ハイヒールの足が痛む私と一緒で。

「これ、どうやったらいいか、マジでわからんねん」

京都の出の彼の言葉には、西のなまりが漂う。彼の黒い瞳と相まって、余計に人懐こさを感じさせた。

マウスを動かして画面を見ると、営業電話の件数と目標達成度合いを算出するセルの数式が飛んでいる。なおすのに5秒もかからなかった。

「がんばらないとねえ、お互い」

私はわたしで、これから翌日のアポイントの資料をそろえなければいけない。まだ初任給も入らないペーペーだというのに、今日も夕飯を家で食べられそうにない。救いのない高揚感だけで突っ走っていた。

「ほんま、ありがとう」

今まで付き合った彼氏のそれよりも、一段やわらかいイントネーションの声。Kくんは笑うと、大きな目がきゅっと細くなる。「どういたしまして」とパソコンのキーボードから手を放し、一瞬、彼の頭を撫でたくなった自分がいた。

事務作業が壊滅的な彼は、それを補っても余るくらい、人の心をつかむのが上手だった。彼が持つ最大の武器、愛嬌のある笑顔と持ち前の素直さで、社内はおろか客先で気に入られるのに時間はかからなかった。

希望に見せかけた春が終わると、休みを満喫できるはずの黄金週があり、雨雲が空を塗りつぶす水無月になった。

会社のなかには、仕事の麻薬みたいな誘惑がつねに充満していた。だから、精神は高揚したままだった。連日の残業が続き、意欲だけはあるゾンビみたいになった私は、夕飯も食べずに鬼の形相でキーボードを叩いていた。計画書を仕上げ、残りのパワポの企画書を作り、明日のアポの訪問先も調べないといけない。

やるべきことが石のように頭に詰まった私は、さぞ切羽詰まった表情をしていたのだろう。

「なあ、みてみて」

不意に、隣からKくんの声がした。あの、やわらかい声だ。

凝視していた画面から視線をうつすと、Kくんがおもむろに眼鏡を外し耳にかかるアームの部分を両手で持った。

「この眼鏡なあ、めっちゃ曲がるねん」

唐突な申し出に視線を固定して眺めていると、Kくんは手に持ったそれに力をいれ、めいっぱい曲げた。そして――小さな音とともに、フレームが中心から割れた。

「わぁ!!」

あまりにも予想外の出来事、とでもいうようにKくんが狼狽している。懇願するような眼を私に向けるが、はっきり言って知ったこっちゃない。なんだっていうんだ。仕事の邪魔をしないでほしい。のどまで出かかった言葉とは裏腹に、私の口から洩れたのは笑いだった。

「な、なにやってんの……」

張りつめていた糸が切れたみたいに、笑いが止まらない。眼鏡を壊した間抜け顔の同期を見ていると、ようやく自分がお腹を空かせていると気がついた。

ねえ、花まるうどんで夕飯おごるから一緒に行こうよと涙目で声をかけると、「ええなあ」とKくんは同意してくれた。ともすれば砂漠になってしまう働き方のなかで、彼はひそかに私のオアシスだった。

桜の季節が3回巡って私は会社を変え、それでも彼とは友達で、たまに二人で会って飲みに行き近況報告した。やがて私は付き合っていた彼氏と同じ苗字に変わった。

じゃあ、結婚のお祝いに飲もうよ、とKくんから携帯メールで誘われた日の3日後の晩だったと思う。J-POPが流れる、気取る必要のない店内で、ビールのグラスを合わせて、私たちはいつものように乾杯した。


「俺が眼鏡壊したの、おぼえてる?」

店内には、恋の歌が流れていた。唐突に始まったセリフに、カウンター席の隣の、頬杖をついた彼と私の視線が交わる。

「あれでしょ、バキッていっちゃったやつ」
「そうそう」

二人の間に一瞬ただよった春の風を断ち切るように、私はクスクスと笑う。Kくんも笑う。彼の人懐こい笑顔は、あのころと変わらない。なんであんなバカみたいなことしたの、と口を開こうとしたときだった。

「あれなあ、新入社員には痛かったわ。直すの、めっちゃ高かった」

Kくんが、当時の私が知らなかった話をはじめた。顔は赤いけれど、さほど酔っているようにも思えない。

「あんとき、隣みたら、ゾンビみたいな顔しててな。いまにも泣きそうだし。これはアカンと思って」

知らない、私がひとかけらも思いもしなかった話。

「あの眼鏡、めっちゃ曲がるから見せたろ思って。折れたけどな。」

あの、とびきり仕事ができなかった同期のKくんは、いま、見たことのない表情をしてる。

「でも、笑ってくれたから。壊した甲斐があったわ」

耳に残るイントネーションと、笑顔は変わらないのに。

なにそれ知らない。バカじゃないの。どれも言葉にならなくて、私は眼鏡をかけていない彼の横顔をじっと見つめてしまった。頭上からは、相変わらず恋の美しさと悲しさをうたった歌が降ってくる。


知らなかった。気づこうとすらしなかった。

入社2年目、営業成績をメキメキ伸ばしはじめた彼は、煮詰まるとよくサポート部門に異動になった私のデスクに来た。

「まじしんどい。もうアカン」

すでに帰社した派遣スタッフの椅子に座り、夕方の人が減り始めた社内でぼやきを口にする。しこたまタスクが溜まっている私は、画面から目をそらさず相打ちを打つ。Kくんがコーヒー片手にやってきた日は、手を止めて10分話を聞く。それだけの関係だった。

どうやったってハードになる、救いようのない若い社会人生活を送る中で。弱音を吐きながら、隣のデスクに突っ伏す彼の頭を、何回か撫でてあげようかなと思った。

人懐こい彼の笑顔が変わるのに怖気づいた私は、引き出しからおやつのチョコレートを数個とって「元気だしなよ」と渡す。

「ほんま、ありがとう」

耳に残るイントネーションと、私の頭に軽く添えられた手の体温を残して去っていくのが、彼との会話が終わる合図だった。


いつだって、後から気づくのだ。Kくんが去ったあと、肩に入っていた余計な力が幾分かやわらいでいることに。本当に作業が詰まっているタイミングでは彼は現れず、うつうつと気持ちが淀んだ夕方に大抵やって来ることに。


「ありがとね」って、笑って肩を叩くから。この恋の歌が終わるまでは、もう少し君を見ていたいよなんて、気づかなかった胸の奥底から、ぽこぽこと色のついた泡が沸き上がり水面で弾けた。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?