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【小説】 終わりの電車の向こうがわ

オレンジ色の静かな光が、中身が半分になった梅酒のグラスについた水滴に反射する。

わざと腕時計の時刻に気づかないように、彼のブルーのネクタイと浮き上がった喉仏に視線をあわせた。

ふたりきりの個室の外、数十分前までは人の気配が絶えなかった居酒屋が、だんだんと静かになっていく。夜が更け、終電が近い。あたしは、まだ知らないフリをしている。

「だからさ、もっとやらなきゃって思うんだよね」

ビール4杯飲んで変わらない顔色の彼は、先程から熱っぽく、立ち上がったばかりのプロジェクトについて語っていた。

脳みそに残る梅酒が、あたしの中でトロンと彼の言葉をとかしていく。あたしが本当に聞きたいのは、4歳年上の彼の、オフィスにいるときと同じ響きの声じゃない。

「でも、よくがんばったよな」

ツウ、と彼の持つビアグラスの水滴がテーブルに垂れた。

あたしの知っている男の人の手よりも幾分か大きい右手。その手で、あたしの頭をなでて欲しい。

下心ありのご褒美目当てに、この3ヶ月間、慣れない営業に駆けずり回った。

新人の誰よりも多く電話をかけた。営業トークのコツを先輩達に聞いて回った。受注件数が伸びるほど、チームリーダーの彼との接点は増えた。

もちろん、真面目な仕事への熱意はある。でも、ヒールで歩く外回りから帰社したときの足の痛み、道端で配られるティッシュよりも軽くあしらわれた客先での涙、そんなものを、いとも簡単に包んでくれる彼に、あたしが憧れと尊敬を詰め込んだ感情を抱くのに時間はかからなかった。

今夜は月間MVPをとったあたしのお祝いだ。「二人で飲みに行くか」と彼がくれた誘い文句を、この夜を特別にする言い訳にした。

タイムリミットに気づかないでと願うあたしの携帯が、テーブルの上でブルっと震える。もうひとりの「彼」からだ。

「すみません、ちょっと」

あたしはサッと携帯をとり個室を出た。誰からのメールかなんて、目の前の彼には1ミリも知られたくなかった。

『いまどこ?』

2つ年下の彼からのメールに、『同僚と飲んでる』とだけ返す。きっとすぐ電話がかかってくるはずだ。お店の奥の、化粧室がある廊下へと移動する。突き当たりの全身が映る窓ガラスの水滴に、不安定な夜の街に降り出した雨を知る。

彼のすがるような『いま話せる?』にあたしが返した素っ気ない『うん』から着信まで8秒。

「今日、帰ってこないの?」

声のむこうで、彼のいるからっぽなワンルームが響いている。いつもの合鍵でドアを開けて。唐揚げと缶チューハイが入っているコンビニ袋を手に下げて。取るに足りない愚痴を抱えて。あたしの帰りなんて待たないでよ、って言いたい。

「うーん、悩み相談、長引いちゃって」

お祝いの夜という秘密は、電話のむこうの彼にはまだ内緒にしておきたかった。

ポツ、ポツ、ポツ。

窓ガラスを叩く雨音が強くなる。夜の雨が、電波を遮断してくれたらいいのに。

「さいきん、多いよね」

何が? とは聞かない。風船みたいに膨らんだ不満を破裂させるのは今夜じゃない。

二人の間に流れる不自然な沈黙。3年も一緒にいれば、見えないものだってわかってしまう。気づかないフリが上手くなっただけだ。

ポツ、ポツ、ポツ。

雨音が叩きつけるのは怒りなのか、それとも悲しみか。

いつからだろう。彼の大学での友人関係の悩みを聞き流すようになったのは。クライアントの無理難題に夜の会社でパソコンに向かうあたしのほうが辛いんだと思うようになったのは。

いつからだろう。彼の就職活動の不安を甘えだと切り捨てたのは。あたしが仕事で流した涙を彼の前で見せなくなったのは。

彼は今夜、一人であの安っぽい缶チューハイを飲んだのだろうか。

「……まあ、飲みすぎないでね」

ありがとう、とも、ごめんね、とも言わずに切った。電話なら、指先ひとつでつながりを断てるのに。

ポツ、ポツ、ポツ。

夜を隠す雨足は激しさを増す。窓ガラスに映る酔いが醒めたあたしの影を、打ちつける雫が洗い流す。それでよかった。

あの部屋で、二人で笑いながらつまんだ唐揚げと缶チューハイを疎ましく思う女の顔なんて、いまは見たくない。


すみません、とカーテンを開けて個室に戻る。ドリンクメニューを眺めていた彼は、大丈夫、と目を細めた。そのまま「俺もちょっと」と入れ違いで席を立つ。

残った梅酒の氷はすっかり溶けていた。お皿に置き忘れられた唐揚げが、干からびているようにみえる。

大丈夫、夜はまだ長い。

電話のあと、化粧室にも行けばよかった。携帯のカメラを自撮りモードに切り替え、眉毛は消えてないかなんて余計な心配をする。ひゅっ、と画面の上から流れてくる見慣れた名前の通知。

『邪魔して、ごめんね』

年齢よりも童顔で、さみしがりやな彼の顔が一瞬よぎる。

本当は、わかってる。弱みを見せない壁を先に作ったのはあたしだ。格好悪い姿を先に許せなくなったのはあたしだ。最後まで、優しくできなかったのはあたしだ。謝るべきなのは、彼じゃない。

お前なんか最低だと、あたしを唯一なじる資格のある彼から逃げ回っているあたしは、今宵雨の街に潜む卑怯者の一人だ。

「おまたせ」

ネクタイを外した彼が戻ってきた。座っていた向かいではなく、あたしの横に腰を下ろす。カーテンが閉まる。

「なんでこっちに」

気づかないフリをして笑うと、彼の膝があたしの膝に触れた。スーツの布越しに伝わる体温。

ゴツゴツした長い指、大きな手、広い肩幅。

息遣いが聞こえる隣の彼の顔を見る。

近いなと思うのと、

キスしたい衝動に駆られるのと、

キスされるのが同時だった。


目を閉じる。頭の中でごめんね、と謝罪にもならない言葉をつぶやいた。雨の音は、ここまでは追いかけてこない。

終わりの電車はもう出てしまった。どこにもつながらない、切り取られたこの夜を残して。

夜が明けて、あの部屋に戻る朝に彼がいなくなっていればいいのにと、キスの余韻に願ったあたしにきっと救いなんかない。


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