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いつも、あれが最後だなんて気づきもせずに

木に何羽止まってるんだよ、と思うくらいの小鳥のさえずりで目を覚ます。カーテンの隙間から、うっすらと光が差し込んでいる。夫はもう起きたようだ。片手を探り、スマホを取り寄せると時刻は朝の6時半。

手を伸ばせば届く距離に、娘が両手を投げ出して寝ている。

自由奔放という言葉がふさわしい寝相。クイーンサイズのベッドをほぼ占拠し、一緒に寝る私はわずかな隙間に追いやられるのが日常だ。

目を閉じて、静かな寝息を立てている。柔らかな前髪がハラハラと流れて、おでこが見える。

「寝顔は、赤ちゃんのときとおんなじね」なんて中学生の娘にかける母の言葉を、(どこ見てんの。冗談でしょ)とあきれて聞いていたものだが、今になってその意味がわかる。親の目には、子供の寝顔というのはいつまでたっても、赤ちゃんのときのように映る。

6時起きが日課の娘にしては、まだ寝ているのは珍しい。いつもは、たいてい娘のほうが早く起きる。「もう起きよう?」と起こされる日もあるし、「おかあさん、好き」とか寝ぼけてもぞもぞくっついてくる日もある。

ここ数日、NZの夏の暑さが続いており寝苦しいのだろう。まだ起きそうもないなと思って、私はそっとベッドを抜け出した。

理想的な母親像といえば、子供より早起きをイメージするかもしれない。我が家は違う。たいてい、子供と一緒に起床する。なぜなら、子供のほうが起きるのが早いからだ。6時起床の日もあれば、5時半に起こされるときもある。私のほうが朝が弱いので、6時前に娘が目を覚まそうものなら夫が対応したりする。

朝、娘と一緒に起きて、ベッドからはい出し、廊下をてくてく歩いてリビングに向かい、もそもそ朝食の支度をはじめる。5歳の娘が、お弁当のサンドイッチを自分で作る日もある。そんな光景が、我が家の一日のはじまり。

私が、子供より早く起きないのにはもう一つ理由がある。それは、娘が目を覚ましたとき、ベッドに一人だとひどく泣くからだ。

思い返せば、娘は立派な「寝ない子」だった。いや、娘よりも「寝ない子」は世の中にいる。けれども、満1歳になろうというのに夜3時間~4時間おきに泣くというのは、「寝ない子のグループ」に入れてもいいんじゃないかと思う。

出産してから知ったのだけれど、世の中には山ほどの「寝かしつけのワザ」がある。寝る前に、本を読むなどルーティーンを作ること。寝るときに、おでこをさわさわすること。背中をリズミカルにトントン叩いてあげること。子供をいかに早く「自分で入眠できるようにするか」は、乳児持ちの親にとって3度のメシを上回るくらい重要なテーマだ。なんせ、子が0歳のころ子持ちの友人と会えば、「どう?(親が)寝れてる?」があいさつ代わりの話題になるのだから。

30分でも、赤ん坊の「連続睡眠時間」が伸びること。これは、親の体力を回復させ精神の安定をもたらす。3時間おきに泣き声でたたき起こされる生活が1年続くのは、目に見えない拷問をじわじわ受けているようなものだ。脳細胞が、日に日に死滅していく気がする。

私も、世の中の多くの親と同じように、我が子の連続睡眠時間を延ばすべく奮闘した。なるべく、自分で入眠できるように。夜中に眠りが浅くなっても、背中をなでるだけで再び寝入るように。けれども、娘はてごわい。抱っこや添い乳で寝入り、夜中泣いたときはお母さんが隣にいないとダメ。3歳で卒乳してからは、連続睡眠時間はさすがに伸びたものの、夜の11時に目を覚まして隣に両親がいないと、寝室から「わあああん」と泣いて親を呼び戻す。

そしていま5歳。生まれた日から数えると、実に365×5年の1825回。ぐっすり眠れぬ夜を超えた。さすがに睡眠サイクルは成熟し、夜中はほとんど起きなくなった。娘は寝相が激しく悪いので、膝蹴りや頭突きで親がダメージを食らうことはある。けれども、泣き声で起こされ30分抱っこと格闘しなければならなかった夜と比較すれば、天国みたいなものだ。

しかしながら、「寝起きに親がいないと泣く」癖はいまだ健在だった。私が早起きして、隣の仕事部屋でパソコンをたたこうものなら、寝室から「おかーさーん」という泣き声が聞こえてくる。廊下の電気をつけて、「朝起きて、もし隣にいなくてもリビングにいるよ」と教えてもダメ。泣き声が聞こえたら、こちらも0歳からの習慣で廊下をダッシュして寝室に駆け込む。もう、ベッドから落ちてもケガ一つしない大きさになっているにもかかわらず。

そんなこんなで「子供より早起きするお母さん」をあきらめていた。娘が目を覚ましたとき、私も一緒に起きればいい。むしろ、早起きの娘が目覚まし代わりだ。そんな感じで。

今日みたいに、偶然が重なって私のほうが早くベッドを抜け出したとしても、しばらくすると泣き声が聞こえてくるのだろう。目玉焼きを焼くためのスキレットを熱している最中とか、ケトルのお湯がコーヒー用に沸いたその次の瞬間とか。

それまでに、できる朝食の準備をしようと、いつものように鉄鍋をコンロの上にのせる。さて卵をと、冷蔵庫に近づくとドアの向こうから廊下をてくてく歩いてくる小さな姿が見えた。

「あれまあ、おはよう」

不意打ちに、変な挨拶をしてしまう。

目をこすりながら、片手にお気に入りの猫のぬいぐるみを持ち、娘が起きてきた。しかも、泣いていない。

「わあー、娘ちゃん、泣かずに一人で起きてこれたね。えらいねえ」

ハッと気を取り直して、わしゃわしゃと寝ぐせの立った髪をなでてやる。(でへへへ)と、娘は得意げだ。

ああ、もう寝起きに泣く娘は「いない」んだ。いつかのあれが、最後だったんだ。

娘が一人で起きてくる朝は、今回がはじめてではない。1週間ほど前にも、おんなじように泣かずに起きてきた日があった。

そのときは、一人で起きれてすごいねと喜んだものの、(珍しいな)ぐらいにしか感じなかった。その日が「たまたま」で、また次の日から「いつもの」寝起きに親の姿を泣いて探す娘がいると思っていたからだ。

けれども、今日も泣かずに一人で廊下を歩いてきた娘の姿を見て、それが偶然ではないのだと知った。娘は、泣かずに起きると決めたのだ。「だって、もう娘ちゃん5歳だからね」なんて自信満々に言う。

親になって、ふと思い出すことがある。

昔、父親と一緒に子供時代のビデオテープを見ていたときのことだ。

30年前は、いまみたいにスマホで動画を撮影なんてできなかった。VHSとよばれる、長方形の黒いビデオテープ。ガチャンとデッキに入れて、再生ボタンを押す。

たぶんあれば、祖父母の家に帰省した夏休みだ。私は、中学生。ひょんなことから見つけた昔のビデオテープを、再生した。

四角いテレビ画面にうつしだされる、小さな子供たちの姿。4、5歳ぐらいだろうか。半袖の私と妹が、笑いながら家の前の小道で遊んでいる。

「わあ、かわいいね」

「私も、小さいときはこんな目が大きかったんだよ~」

なんて、何気なく笑いながら父親と並んで見た。

ふと、横に目をやってぎょっとした。父親の目が、うるんでいる。真っ赤になって、いまにも涙があふれそうだ。45歳の、まだまだ働き盛り。普段は寡黙で、晩酌にかならずビールを1本飲む。年頃の娘との接し方は、けして器用とはいえない。「暗いところで本を読むな」と、いつも怒る。白髪が混ざってきて、たいていは母の話の聞き役をしているお父さん。そんな父が、泣きそうになっている。

正直言って、なんて声をかけたらいいのかわからなかった。こんな、大したことない日常のビデオテープだ。ただ、幼い私と妹がうつっているだけ。古びた自転車を押して、ビデオカメラを構える父親のほうにかけてくる。ただ、それだけの映像なのになんで泣くの??

思春期まっさかりだった当時の私は、(なんかお父さん恥ずかしい)以外の感情がわいてこなかった。

「やだ、お父さん泣いてる!」

笑いに変えることで、気恥ずかしさを消化させた。

いまなら、ちょっぴりわかる気がする。黒縁眼鏡をはずして、涙をぬぐっていた父のあのときの気持ちが。

子供と一緒に過ごす日々は、目を凝らさないと気づかないさよならの連続だ。

お母さんがトイレに立っただけで、泣いてハイハイしながら追いかけてきたあの子は、もうどこにもいない。

バナナを指さして「バ!」と言ったあの子も。

5歳児の赤ちゃん返りでは、どうやっても再現できない甘ったるい活舌の悪さで「あちゃ!あちゃ!」としゃべる子も。

玄関前のわずかな斜面を、嬉しそうによたよた行き来したあの子も。

みんな、みーんないなくなってしまった。

お迎えのときに私の姿を見つけて、満面の笑みで駆け寄ってきたり、「きゃー」と歓声を上げてまだ帰りたくないと逃げ回るこの子も、きっと、気づかないうちにいなくなってしまう。

誤解しないでほしい。早く成長しないでくれと、願っているわけではない。個人的には、子育ての最終地点は、親からの自立だと思っている。乳幼児期の親の体力的・時間的な負担を考えれば、成長ほど喜ばしいものはない。一つできるようになることで、一歩また親から離れていく。しっかりと立って歩きだす後ろ姿。昨日まで赤ちゃんだと思っていた小さな背中が、頼もしく見える。

じゃあ、この気持ちはなんだろう。ふと、立ち止まってしまうような。置いてきぼりをくらったような。

(さみしい)に、とても似ている。でも、少し違う。

本当に、大きくなるんだ。ずっと、赤ちゃんだとは思わないけれど、こんなに早く離れていくなんて聞いていない。胸の中で、何回も同じことをつぶやきながら、一歩づつ私から離れて世界を広げる娘を見ている。

お腹の中にいたのに、いつかその後ろ姿も見えないところまで行くんだろう。過ぎ去ってしまった何かに気づくたびに、子育てに「卒業」があるべきだと、じわじわと告げられているようだ。親のほうが、子離れの準備をちゃんとしておけよ、なんて。

毎日、子供の歯を磨いて、お弁当を作って、汚い足を洗いなさいとお風呂に入れて、おもちゃを片付けようと床にはいつくばって。「お母さんお母さんみてみて」の連呼に「はいはい」と答えて1日が終わる。寝かしつけてベッドから抜け出し、終わった食洗器から食器を取り出す。そうやって、毎日が過ぎていく。

子育ての手を離れた親御さんが、過ぎ去ってしまった子供との日々が、いかに輝いていたかを説く。わかっている。でも、零れ落ちずすべてを抱えられるほど、私たちは器用じゃない。

余裕がなくて、眉間にしわを寄せて、子供の可愛さなんて目に入らないときもある。1日を安全に生きながらえることが目標で、0歳児の愛らしさを味わう暇がない時期もあった。

だから。

どうかどうか。

気づいたときに、忘れないように書いておく。気づかないうちに過ぎ去ってしまう愛おしい日々を。二度とみることができないかもしれない、そのとき特有の仕草を。舌足らずなしゃべり方を。抱き上げてもらえると信じて疑わずに差し出す小さな手を。

いつかどこかでふと出会ったときに、きっと泣いてしまうから。



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