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【小説】きこえないはずの音が、僕の骨を軋ませる

「2万Hz以上の音って、きこえないんだって」

彼女の白い背中があるはずの位置に手を伸ばすと、僕の額にふっと息がかかった。とっくに全神経を集中させていた指先がピタと止まり、彼女が唐突に音の話をはじめた理由を、暗闇が広がる先を見つめて考える。

「イルカの声は、もっと高いの」

スピーカーを買ったってはしゃいでいた笑顔を思い出し、その唇をオーケストラの話題が出る前にふさいでしまおうと、指を長い髪に絡ませた。

いつものワンルームは、彼女が来ているときだけは、やけに行儀がいい。出しっぱなしの靴下も、いつ替えたか忘れた手拭きタオルも、今日はどこにも見当たらない。2か月と11日ぶりの訪問者を丁寧にお迎えしたシングルベッドは、シワひとつなかった。10分前まではね。

ほとんどつけないテレビも、親の金で買った小説の山も、『ちょと早いけど』って彼女がくれた10代最後の誕生日プレゼントも、輪郭が闇に溶けて細かい粒子となって二人の周りを漂っている。

この耳に響くのは、遠く波のさざめきと、近く甘い息遣い。『素顔の君が見たい』なんて会える日を数えながら思い浮かべていた不埒な願いを口にしたら、部屋のすべての灯りを取り払われてしまった。

世界で一番壊れやすいガラスを扱うように、わざとゆっくりと覆いかぶさる。真っ暗闇で、君の歪む眉の形すらわからないのに、いまどんな表情をしてるか知ってるよ、なんて口にしたら、怒られるだろうか。いや、もうまともにしゃべれないかもしれないなと、手のひらから伝わる熱をなぞる。

境界線があいまいな天井に響く僕の一番好きな声。どうして耳に聞こえない音なんて知りたがるの。とらえることができなくて、目にも見えないなら、それは存在しないのとイコールだ。

闇に紛れているだけで、たしかにこの腕の中にいる細い肩に僕はぎゅっと力を込める。立ち昇るライラックのような花の香が、脳みそを揺さぶる。

聞き取れない音に僕は興味はないんだ。動物だけが知っている音色は、きっと美しいなんて君は笑っていたけれど。そりゃ、僕だってわかってる。震える耳元でささやく5文字。それだけで君の体の液体がどれだけ振動するかって。

マシュマロみたいな耳たぶを甘噛みする。瞼のうらに、いつか見た海が浮かんだ。

「お別れは、夕方って決めてるの」

寂しくてもすぐに寝てしまうからと、2年11か月前の彼女が言ってから、さよならはいつも午後4時の駅のホームだ。5両編成の青い車両に乗り込む前に、彼女はついばむように唇を重ねる。まるで別れの儀式で、また会えるおまじないみたいに。

電車が米粒みたいに消え去って、用済みになったホームを出る。色褪せたアジサイの葉が不機嫌そうに揺れている。乾いた風が、人気のないアスファルトを通り過ぎる。ポケットに手を突っ込んで、波の音のするほうへ向かう。

道の突き当り、信号と横断歩道の先、防波堤に上ると向こうまで見渡せる灰色の海。コンクリートに寝転んで空を仰ぐと、オレンジの光がまっすぐ僕に照射した。

役目を終えた夕刻の太陽が、瞬きするたびに海に数ミリずつ飲み込まれていく。耳に届くのは変哲もない波の重なり。それなのに、視界を鮮やかに染める色が、僕のやわらかい内臓を刺激する。

数分前まで触れていた頬。うすい鎖骨にかかる髪。3日前の真新しい土曜日の朝に手をつないで歩いた駅からの道。『さむいね』って笑いながらシーツにくるまってアイスクリームを食べた夜。

おもちゃ箱をひっくり返したみたいに、あふれ出した記憶の粒を、一つ一つたしかめながら僕は息を吸った。潮のかおりがする。はじめて彼女が僕の部屋に来た日、カーテンの隙間から差し込んでいた陽の色を思い出す。

うつくしい景色を見て思い浮かんだその人に、あなたは恋をしているなんて、言ったのは誰だ。

そんなに生易しいもんじゃないぞ、って見つけたら引っぱたいてやる。

身を起して、抱きしめられない温もりの代わりに、防波堤の上で膝を抱える。あと10回瞬きしたら、夕日はすっぽりと海に消えてしまうだろう。きこえない音なんて、聞くもんじゃない。

脳裏のカラフルな映像が僕の骨を震わすたびに、想いが血肉を掻きむしる。僕はいまとても、君に会いたい。


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「2万hz以上の音を文章で表現してみる」

▼先日、仲さんが嶋津さんの文章レビューで出したお題です。

▼改稿verの嶋津さん、出だしからして度肝を抜かれました。

マリナ油森智春さんが書いていたお題の回答が面白かったので、私もひとつ書いてみました。

物語にするにあたって考えてみたことは。低周波数帯域は皮膚に響くのに対して、高周波数帯域は骨を伝わるんですって。骨まで響いたら、人の体からなにが出てくるのだろう。ふとした瞬間に呼び覚まされる感情や記憶って、ある気がする。

あと、可聴音域は若い頃のほうが広いから、青春と呼ばれた時代は、目に映る細々したものが心を揺さぶるんでしょうか。そんなことを思いつつ。


嶋津さんは2万Hzの音をきくと「寿命が延びる」って書いたけれど、私の物語に出てくる「僕」はどう見ても寿命が縮まってそうだな、なんて書き終えて思いました。文章表現って難しいな。でも、楽しい。



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