継ぐ人(ラノベ/長編/ハイファンタジー)61,302 文字

①サイラス

 ■

 “迷宮”という場所がある。

 致命の罠、獰猛な魔物、空気は湿っていて重苦しく、苦悩する魂の叫びが闇に木霊する不吉な場所だ。

 これは簡単に言えば“墓”である。

 遥か昔、広大な版図を誇っていた古代王国が存在し、王国の権力者たちは死後の眠りの後に復活があると信じ、自身の肉体を保存しようとした。

 だが力のある者の肉体というのは様々な用途で利用できてしまう。

 例えば魔術の触媒に、例えば霊薬の材料に。

 だから権力者たちは自身の肉体を護る為に迷宮をつくりあげた。

 そして侵入者を防ぐ為の罠を設置し、罠を抜けてくるような小賢しい者達に備えて魔物を放し、遥か先のまだ見ぬ未来に蘇る自身の魂の器を護ろうと苦心した。

 ──そして時は流れ…

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 斥候の少女リラの眼前で、壮年の男と赤い肌の悪魔が床から突き出した何十何百もの太い針に貫かれている。

 ただの針ではない、石化の呪いがかけられた凶悪な針だ。

 男は悪魔の腰に組み付くような態勢で微動だにしない。

「サ、サイラス…」

 リラが掠れたような声で問うが答えはない。

 男も悪魔も既に物言わぬ石像と化していた。

 ばきり、と石像に罅が入る。

 リラがびくりと肩を揺らすと、石像は見る間に砕けていき、破片が迷宮の床に散らばった。

 その破片も粉と砕け、砂となり。

 リラは絶望に瞳を曇らせて、ただただその様子を眺めていた。

 ■

 時は少し遡る。

 迷宮都市リベルタには "酔いどれ騎士" などという不名誉な異名を持つ元騎士がいる。

 名前はサイラス。

 彼は日がな酒浸りで暮らしており、陰口をいくら受けても平然としていた。

 亡国の騎士と言えば聞こえはいいが、祖国の危機を前に命を惜しんで逃げ出したというような中傷を受けているが、それに対して弁明を述べる様子も見られない。

 だから周囲はカサに掛かって更に彼を小馬鹿にするのだ。

 ただし、だからと言って彼を軽んじて金銭をせびったり、気に食わないからといって暴力を振るおうとする者はこの都市には居ない。

 あくまで陰から中傷するだけだ。

 なぜならば極々単純な理由だが、その元騎士が強かったからである。

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 酒場。

「おいおっさん!今日の稼ぎはどうだった?十分稼げたのかよ!」

 柄の悪い若者が揶揄う口調で壮年の男に問いかける。

 周囲の者達も粘着質な、嫌な笑みを浮かべていた。

 だが壮年の男の様子は澄ました様子で答えた。

 態度の悪い若者に腹を立てている感じはない。

「まあな、半金貨と言った所だ坊主。俺は腕がいい。ココもな。坊主は両方悪そうだ、次の探索には注意しろよ。俺の経験上、腕もオツムも悪い奴は大抵早死にする」

 壮年の男は若者以上に粘着質な笑みを浮かべ、人差し指で自身のこめかみをコツコツと叩いた。

 酒場の空気に若者とその仲間の怒気が混じる。

 熱く、しかし青臭い未熟な怒気だ。

 激昂した若者が無意識的に腰の得物に手をやろうとする。

「てめぇ!……うッ」

 だが威勢の良い声は尻つぼみとなる。

 若者が腰に手をやった時には、抜き放たれた長剣の切っ先が若者の喉元に突きつけられていたからだ。

 電光石火の抜剣技に酒場の空気が湧く。

 逆に若者たちの一党には重苦しい空気が沈殿していた。

 仲間達と田舎から出てきて、最初の探索で成功して。

 気分が良くなっていたところで萎れたおっさんを揶揄したらこのザマだ。

 黙りこくってしまった若者たち。

 だがそこへややとぼけたような明るい声が掛けられる。

「冗談だよ坊主。そうビビるな。酒場で殺しなんてやるはずないだろう。殺すならひっそりと、誰にも見られないような場所でやるさ。なあ坊主もそうだろ?ここは脅しておいて、後で俺を殺ろうとしてるんだろ?」

 壮年の男がニタニタと笑いながら、剣の切っ先を若者の頬にピタピタと当てて問いかけた。

「い、いや、そんなことは…ない…」

 若者の顔色は蒼白だ。

 壮年の男の口調は揶揄うようなものだが、剣からは確かな殺気が放射され、若者もそれを感得していた。

 壮年の男は未熟な若者にも理解できるように殺気を飛ばしているのだ。若者の心臓が早鐘を打つ。

 そうかい?と壮年の男は剣を収めた。

「まあ坊主も少し酔っぱらっちまったんだろ?探索者の先輩として、一つ助言をくれてやるよ。酔っぱらった時は更に酒をぶちこんで古い酔いを新しい酔いで上書きしてやるんだ!さぁ呑め呑め!景気が悪い奴はすぐに死ぬからな、ビビらせちまった詫びだ、俺の奢りだ」

 若者たちの表情に、初め浮かべていた嘲弄の色はない。

 吠えていた若者もまるで借りてきた猫のように壮年の男…サイラスの酌を受ける。

 その日の酒宴も夜遅くまで続いた。

②レイランドの騎士


 ■

 それから数日後。

 迷宮探索者サイラスはいつもの様に探索を終え、報酬を受け取り、酒場へとくり出した。

 探索の後は酒場、これがサイラスのルーチンである。

 自身の身体をいたわるような真似はしない。

 浴びるように酒を呑み、翌日は迷宮に向かい酒代を稼ぐ。

 もっと自分を大切にしろ、と彼に忠告する者もいたが、サイラスはへらへらと薄笑いを浮かべてその忠告を聞き流していた。

 なぜなら、サイラスが本当に大切にしたかったものはこの世のどこにもないからである。

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 レイランド王国。

 それがサイラスの生まれた国の名前だ。

 青々とした丘に囲まれた緑豊かな谷間に位置し、肥沃な大地と豊かな資源に恵まれた国であった。

 豊かな農地が広がり、黄金色の小麦畑や鮮やかな果樹園が住民の糧となっていた。

 また、大きな川が流れているため、近隣の国との交易も盛んであった。

 しかし、レイランドの平和はいつまでも続くものではなかった。

 レイランドの富と資源を妬んだ隣国が侵略を開始したのだ。

 資源という意味では十分なレイランド王国も、軍事的な意味では小国の域をでない。

 王国側も無防備であったわけではなく、周辺諸国と同盟を結ぶなど外からの侵略に備えてはいた。

 しかし隣国はレイランドという一大資源を周辺諸国で分け合おうと諸国へ持ちかけ、周辺諸国もまたレイランドの切り取りに賛成したのだ。

 容赦ない猛攻にさらされ、防御は崩れ、都市は破壊され尽くした。

 王国を護る騎士団も奮戦したが、衆寡敵せず……ついに王都は陥落し、レイランド王国は歴史から姿を消した。

 レイランドで生まれ、育ち、運命の相手と出会い、子を成し、自身も自慢の剣腕で順調に出世を重ねてついには騎士団長にまで昇りつめたサイラスはしかし、王国防衛の戦には参加しなかった。

 逃げたのだ。

 隣国から侵略が開始される2年前、サイラスの妻が死んだ。

 流行り病だった。

 しかし彼にはまだ幼い娘がいる。

 愛している妻の病死に意気消沈したサイラスは、それでも幼い娘を育て上げようと決意した。

 そこへきての戦争である。

 サイラスは剣の腕も立つが、頭も回る。

 周辺諸国からの救援の手が来ない理由にもいち早く勘づいた。

 レイランドはどうあがいても滅びる……サイラスはそう判断し、それからの行動は早かった。

 逃亡の決断
 逃亡先の選定
 逃亡に際しての所持品の選別

 そして、決行日。

 サイラスは幼い娘を抱きかかえ、夜闇に紛れて王都から姿を消した。

 §

 サイラスと娘は各地の都市を点々としながらとある場所を目指していた。

 迷宮都市である。

 自由都市リベルタと言うのが元の名称であったが、この都市の抱える特別な事情により"迷宮都市"と呼ばれるに至っている。

 というのも、この都市は大胆にも迷宮の真上に作られ、街はずれには迷宮の入口が存在する。

 そして街には探索者と呼ばれる迷宮探索者が数多く滞在しており、地底に繋がる暗渠へとまだ見ぬ財宝を求めて足を踏み入れていくのだ。

 迷宮の財というのはすなわち古代王国の遺産だ。

 遺物は現在の技術では再現できない物が多い。

 例えば"修復のアミュレット"。

 これは小さな宝石で飾られた複雑なデザインのアミュレットで、身につけると、壊れた陶器や破れた布を直すなど、物体の小さな損傷を修復する能力が付与される。

 その力は限られているが、日常生活において非常に有用であることが証明されており、持ち主は小さな修理にかかる時間と労力を節約することができる。

 例えば"囁くコンパス"。

 謎の金属で作られた古代の豪華なコンパスで、美しい彫刻が施され、金色の針が付いている。ただしこれは方角を指し示すものではなく、持ち主に差し迫る危険の方角を指し示す。

 例えば"無限水差し"。
 この水差しには常に澄んだ水が湛えられており、料理に使おうと飲用に使おうと、使った次の瞬間には水の嵩が元に戻っている。

 こういった便利な品物もあれば、もっと不穏で物騒な事に使えるようなものもあり、戦争に使えるようなものが発掘されたこともある。

 ゆえに各国は、過去に何度もこの都市を所有しようとしてきたが、そのいずれも上手くはいかなかった。

 なぜなら一国がこの都市を占有するなど、他のすべての国が許さないからだ。

 何度かの戦争、おびただしく流れる血。

 そういった経験を経て、結局迷宮都市は周辺諸国の共同管理と言う事になったのだ。

 これは他の迷宮にも同じ事がいえる。

 では発掘された財宝はどうなるのか? 

 それは手に入れた者に所有権がある。

 だから各国は自国の者達を盛んに迷宮へ送り込んでいる。

 サイラスはいくつかの理由で逃亡先に迷宮都市リベルタを選んだ。

 一つ、そういう都市であるなら仕事に困る事はないという事

 二つ、各国共同管理の迷宮都市ならば軍を派遣される事もないという事

 三つ、レイランド王国からの距離

 レイランド王国を直接侵略した隣国はすぐに騎士団長の不在に気づくだろう。隣国も追手を出すかもしれない。

 しかし、逃亡先が迷宮都市であった場合、早々に手を出す事は憚られる筈だ。

 そうサイラスは考えた。

 結果として彼の判断は功を奏する事になる。

 サイラスと彼の娘はリベルタへ居を移し、彼は騎士から探索者へ転身をした。追手が来る気配もない。

 危険はおかさず、安全に探索を続け、細かく稼ぐ。

 自分と子供一人程度なら食べていく事に何も問題はなかった。

 §

 ──そう思っていたンだけどなァ

 ある日の夕暮れ、サイラスは共同墓地に居た。

 この日は娘の月命日だったからだ。

 娘が好きだった花を墓前に供え、サイラスはぼんやりと墓の前で佇んでいた。

 何の事はない。

 とある寒い日、風邪をこじらせてあれよあれよという間に死んでしまったのだ。

 怪我を癒す魔術というものは存在する。

 例え四肢の欠損であっても、迷宮都市なら金を積めば治るだろう。

 しかし病気の治癒というのは魔術では出来ない。

 なぜならば原因が多すぎて絞り切れないからだ。

 結局病気の類は昔ながらの療法に頼るしかないというのが現状だった。

 サイラスは娘の事を考えていた。

 妻譲りの銀髪を伸ばしたがり、髪の毛を先を小さい両の手で握りしめ。

 しきりに自分へ見せて自慢しようとしてくる娘の笑顔。

 目を瞑ればそこには彼の妻が笑顔を浮かべ、娘が妻の腕にしがみついている光景が浮かぶ。

 サイラスは思わず手を伸ばし……指先に冷たいものが触れた。

 目を開ける。

 指が墓石に触れている。

 その冷たさは、彼の娘の遺体のそれによく似ていた。

③ケチな依頼

 ■

 以来、サイラスは無気力かつ怠惰に酒を飲んで暮らしていた。

 探索者業は続けている。

 彼は家族の後を追って死のうかとも考えたが、仮に死後の世界があるとして、それはただの一つだけなのか? という疑問があったからだ。

 自殺者は地獄へ堕ちるという話もあり、念には念をという事で仕方なく生きているのが今の彼である。

 だがただ生きるというのは苦痛だ。

 寝ても覚めても、想うのは今は亡き妻と娘であった。

 だから彼には酒が必要だった。

 酒を浴びるほど呑むには金が必要で、金を稼ぐなら探索が一番だった。

 無気力に堕し業前もさび付いたとはいえ、迷宮浅層を探索する分には何の問題もない。

 その日もサイラスはふらりと酒場に入っていった。

 ぐるりと見渡す。

「いねえか」

 ボヤくサイラスに、顔なじみの迷宮探索者が近寄ってきた。

 バエルという男で、如何にも悪い顔をしているし、実際悪い男なのだが業前は確かだ。

 サイラスより幾つか年下だが、傲岸不遜な男であり、年上を敬うという事を知らない。

 強力な遺物を探し求めてこの迷宮都市へやってきた野心的な魔術師である。

 サイラスはここ数日、先日知り合った若者一党と良く酒を飲んでいた。酒は確かに過去を一時忘れさせてくれるが、一人きりで飲む酒というのは精神が陰に傾きすぎる。

 しかし、誰かとどうしようもないくだらない話をしながら飲めばそこまで気鬱にはならない。

 若者たちにとってもサイラスは出会い方こそは最悪だったが、以降は会えば酒を奢ってくれるし、ちょっとした探索の助言もくれるというのでここ最近は嫌々ではなく進んでサイラスと酒の席を共にしていた。

 バエルは人を不快にさせる厭な笑みを浮かべ、どうにも陰気な事を告げる。

「奴等なら死んだぞ……多分な。新米で未帰還3日目だ。まず死んだと思っていいだろう」

 サイラスはチッと舌打ちしてカウンターへと向かった。

 隣にはバエルが座る。

「君は面倒見が良いからな。あの若者達を見て自分の子供でも思い出したか? 生きていれば彼らくらいの……っと、すまないな、失言だった」

 サイラスの硝子玉の様な眼がじっとバエルを見つめていた。

 バエルは悪びれもせずにニヤリと笑い、それでも表面的にせよ詫びを入れる。

 サイラスは暫くバエルを見つめると、やがて興味を失ったかのように視線を逸らし、琥珀色の液体をぐいと飲み乾した。

 二杯、三杯と空けていくと、サイラスの視界はどろりと歪む。

 そんな風にして彼の精神に僅かにこびりついていたやるせなさを、酒精が洗い流していった。

 ■

 サイラスはこの日、新米探索者の遺品の回収という依頼を受けていた。

 長剣を片手に迷宮第一層を彷徨い歩き、遺品を求めてあちらこちらの玄室を調べていた。

 遺品回収という依頼は頻繁に出されるが、しかし受ける者はそこまでいない。

 費やす労力に比して旨味がなさすぎるのだ。

 探索者ギルドに依頼を出す場合、依頼主はその内容に応じて報酬を定めなければならないが、これは無軌道にいくらでも値をつけていいわけではない。

 依頼の内容に応じて下限と上限が決まっており、この規則は厳守されねばならない。

 そして遺品回収というのは戦闘行為を求められるわけでもなく、採取困難な希少素材を求められるわけでもないため上限が非常に低い。

 当然階層次第で上限は上がるのだが、それを加味してもやはり旨味がある依頼とは言えない。

 だがサイラスはこの遺品回収というのを好んで受けていた。

 それは、死者を生者が悼むという事に対してサイラスに何か思う所があるからだろう、とサイラスの陰気な顔見知りなどは言う。

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 第一層は主に通路と玄室で構成されている。

 左右には石壁、そして石畳の通路が階層全体に張り巡らされているが、迷路というわけではない。

 どちらかといえば規則正しく区画整理されている路地……といった方が正しいだろう。

 玄室とはいわゆる小部屋の事だ。

 中には何もないか、もしくは魔物がいる。

 魔物はお宝を隠し持っており、斃せばなにがしかを得られるだろう。

 といっても第一層の魔物がもっている宝などは小さい屑宝石がせいぜいだろうが。

 たまには当たりもあるが、その当たりを引く確率と、むこう一週間で自身が魔物に殺される確率とならば後者のほうが高いだろう。

 サイラスは曲がり角の手前で立ち止まり、剣を握る手の力を緩めた。

 そして何気ない様子で歩を進め、数瞬分の一程の迅さで宙空に銀閃を描く。

 サイラスの足元に醜く歪んだ人に似た何かの頭が転がる。

 緑小鬼が曲がり角に潜んでいたのだ。そして飛び出した瞬間に首と胴が離れ離れとなった。

 緑小鬼は、迷宮の第一階層に出現する小さな魔物だ。

 身長は約100cm、体格は小柄だが筋肉質で、緑色のデコボコした皮膚で覆われている。

 獰猛さをうかがわせる赤い目と小さな鋭い牙からは、新米探索者のような危機感に乏しいものであっても確かな悪意と害意を感じるだろう。

 彼らは迷宮の魔物のヒエラルキーは最下位に位置するほど下等な魔物であるが、それでも準備のない冒険者や不注意な冒険者にとっては大きな脅威となることがある。

 小柄で機敏なため、迷宮内を素早く忍び足で移動し、その存在に気づかない冒険者を待ち伏せることもしばしばある。

 “緑小鬼”の主な攻撃手段は、鋭い歯と鉤爪で相手に噛みつき、引っ掻くことである。

 これらの攻撃は単独では致命傷にはならないが、緑小鬼は傷口を執拗に狙うため、小さい傷が思わぬ重傷へと変わってしまい、死に至ることもある。

 ただし、脅威の程度は狂暴な犬程度だ。

 それなりに場数を踏んだ者からすれば彼らの稚拙な突撃などは威勢の良い自殺志願でしかない。

 不意打ちをする程度の知能があるとはいえ、相手の立場になって策をめぐらせる程の知能はない。

 例えば不意打ちを相手が既に想定しているかも、とは夢にも思わないのだ。

 サイラスは腰を屈めて緑小鬼の頭を拾い上げる。

 獰猛な敵意に歪んだままのそれには、瞳の輝きさえ度外視すればまだまだ生の活力が残っているかのようだった。

「おいおい、死んだ後も表情が変わらねえのな。そんなに俺を食い殺したいのかい? 死ぬ時も前のめりか……良いねえ。俺よりよっぽど上等に見えるぜ」

 サイラスはゲラゲラと笑いながら、緑小鬼の首を迷宮の暗がりへと蹴り飛ばす。

④傷だらけの少女

 ■

 サイラスはとある玄室の入口の前に立っていた。

 その表情は無機質で、感情らしきものが浮かんでいる様子はない。

 だが彼は一向に玄室の扉を開けようとはしない。

 身もふたもない言い方をしてしまえば、勘が玄室を開く事を拒んでいたのだ。

 それはいい、とサイラスは思う。

 だが、第一層で"それ"が働くというのが問題なのだ。

 サイラスは本来、第一層にいるべき探索者ではない。

 第一層というのは言ってしまえば新米の訓練場のようなものだ。

 それなのに危機感がこれほどまでに警鐘を鳴らすというのは異常な事態であった。

 そもそもこの玄室には危険はないはずである。

 魔物が入れない安全地帯なのだから。

 安全地帯とは名前の通りだ。

 各階層に存在する魔物を拒絶する空間である。

 それは広間の一角であったり、一層のように玄室であったり、その辺りは階層ごとに異なっているが、いずれも共通するのはその空間には魔物が入ってこれない上に、罠なども存在しないという事である。

「さて、何が待っているのやら」

 サイラスは薄ら笑いを浮かべながら玄室の扉を押した。

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 果たして玄室には何が待っていたのか。

 何がしかの影響で突然変異した悍ましい魔物か

 邪神を崇め奉る邪神教徒が悍ましい儀式でもやっていたのか

 迷宮の機嫌が斜めなのか、もしくは他の理由かで玄室に致死の罠が設置されてしまったのか

 そのいずれでもなかった。

 玄室にいたのは、いや、正確に言えば玄室で倒れていたのは一人の傷だらけの少女である。

 サイラスは素早く少女の肢体に視線を走らせ、その肉体に刻まれた傷が本物であることを見てとった。

 しかしなぜ一人きりで放置されているのだろうか? 

 ここに怪我人がいるというのは分かる。

 魔物が入り込めない空間に怪我人を安置するというのは理が適っている。

 だが、少女の筋肉の付き方や衣服などを見るに、新米冒険者程度の業前であることが見て取れた。

 ──第一層を怪我を負いながらも探索するほどの未熟者が、果たして足手まといを見捨てるだけの非情さを持つ事が出来るだろうか? 

 サイラスは疑念の目で少女を見つめていた。

 衣服は探索者向けの頑丈だが安物の服であり、新米の斥候がよく身に着けているものだった。

 少女は意識がないようだ。頬に青い痣がついている。

 酷く殴られたようだった。

 年の頃は15、6といった所だろうか。

 素朴な顔立ち、貧相な体つきだ。

(貧農の出か、孤児か。探索者に憧れて迷宮都市に来たクチかもな)

 だが、とサイラスは目を細める。

 ──殴られた? 

 ──迷宮で? 

 ふん、とサイラスは鼻で笑った。

 迷宮という場所では殴られる事は余りない。

 鋭い牙で嚙み千切られたり、鋭い爪で引っ掻かれたり、頭を叩き潰される事はよくある。

 しかし、未熟な小娘が殴られてそれでも生きているという例は余りない。

 サイラスは少女の方へ歩みより、そして暫く少女を見下ろした後、ゆっくり後ろを振り返った。

 そこには嫌な笑いを浮かべた体格の良い数人の薄汚い男たちが立っていた。

 既に武器を構えてこちらへ突っ込もうとしている所を見ると、サイラスが少女に気を取られている間に背後から襲い掛かろうとしているらしい。

⑤リラという少女

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 安全地帯は安全だからそう名づけられている。

 魔物は入ってこないし、罠も張られていない。

 しかし真の意味で安全であることを意味しない。

 男たちは無言で得物を構える。

 新人狩りか、とサイラスはまたもや鼻で笑った。

 "新人狩り"──……それは一部の悪徳探索者や犯罪集団によって行われる犯罪行為だ。

 迷宮都市では一等罪が重い。

 何せ探索者というのは迷宮都市にとってはまさに人財だからだ。

 迷宮内で発見した遺物や財宝の所有権は探索者にある事は間違いないが、大抵の探索者は金を稼ぎに迷宮都市を訪れるわけで、そうであるなら手に入れた遺物などを都市で金に替えるというのは珍しい事ではない。

 勿論周辺諸国からの紐付きなどは強力な遺物を都市外へ持ち出すだろうが、それにしたって財宝などは都市で売り捌くこともあるだろう。

 彼らにも活動資金は必要で、国からの支援というのも無限ではないのだから。

 迷宮都市は迷宮だけが売りなのではなく、探索者を都市にとどめるために娯楽の面でも相当に力を入れている。

 いってみれば探索者に金を使わせるように計算して都市設計がなされているのだ。

 ゆえに探索者とは迷宮都市を繁栄させるための人財であり、これを狩ろうという初心者狩りは発覚し次第猶予の余地なく死罪にあたる大罪である。

 それでもこの罪が無くならないのは、そもそも被害者が死んで死体が迷宮に呑まれてしまえば発覚しづらいというのと、迷宮を探索するよりは初心者を殺害するほうが簡単だからという理由がある。

 サイラス自身は別にいつ死んだって構わないと思っている。

 なんだったら無抵抗で目の前の屑共に殺されてやったっていいとすら考えていた。

 しかしこれは彼自身にも理由は定かではないが、あたら命を捨てる様な真似をすれば……

 ──行けない気がするんだよな

 妻と娘が待つ天国へといけない気がする。

 そんな思いがサイラスにはあった。

 §

 暴漢たちはそれぞれ威嚇するように武器を振り回し、その歪んだ顔は玄室の四方に据え付けられたランプの揺らめく光によって更に醜悪に歪められている。

 小柄な男が飢えた野獣の様に突進し、古びた錆びた剣を振りかぶった。

 錆だらけの刃が、薄暗い光の中で悪意のある飢えに輝いている。

 サイラスは右手の力を抜き、死に至る錆色の弧を右拳の背で巧みに払いのけた。

 サイラスの手甲と剣の腹が衝突し、耳障りな金属音が玄室に鳴り響く。

 暴漢は武器を握る手に痺れを感じ、武器を取り落す。

 サイラスの左腕が小さく折りたたまれ、その肘が短い弧を描いて暴漢のこめかみに叩き込まれた。

 骨が破砕し、肉が潰れる感触。

 暴漢は目と鼻、耳から血を吹き出して斃れ伏した。

 しゃらりと音がなる。

 サイラスが剣を抜いたのだ。

 最初の暴漢の突進が急だったため、剣を抜く間に肉薄される事を考えて徒手で仕留めたが、サイラスは拳よりは剣の扱いを得手とする。

 騎士団長時代からの愛剣で、"切れ味"の加護が付与されている。

 魔法武器というやつだ。

 ただ、小国の騎士団長に与えられる剣に付与される魔法などはたかがしれており、"切れ味"の加護は若干切れ味がよくなるだけの効果に過ぎない。

 ■

 暴漢達は一瞬で仕留められた仲間を見て刹那呆然とし、すぐに頭に血を昇らせた。

 玄室の石壁に映る微妙な影の揺らぎが、これから起こる暴挙を予感させるように踊っている。

 不穏な気配は一瞬で膨れ上がり、そして弾けた。

 怒りで青筋を立てた巨漢ゴッフルがスパイク付きの棍棒を握りしめ、サイラスを叩き潰そうと唸り声を上げて突進してきた。

 サイラスは半身となって攻撃をかわし、巨漢が振り下ろした腕が伸びきった所で剣を振りかざし、その柄で肘を痛打して骨をへし折った。巨漢が絶叫するがそれも長くは続かない。

 痛みで注意がおろそかになった巨漢の喉を剣で引き裂き、男は喉からヒュウヒュウと音を立て、血が泡立つ音と主に斃れて死んだ。

 双子の暴漢、オイゲンとバーソンは怒りに燃えた。

 彼等は奇形の双子だ。

 オイゲンは左目が鼻の真横にあり、バーソンは耳と左手の薬指がない。

 彼らのような奇形は表の世界では仕事に付く事もできず、人並みの生活を送る事は難しいだろう。

 双子はそれなりの業を持つナイフ使いであり、怒りに燃えた彼等は、飢えた狼のようにサイラスへ向かってくる。

 双子ならではの息の合った連携攻撃。

 一人に向かって剣を振りかざせば、その隙にもう一人からの攻撃を受けるだろう。

 しかしサイラスはひらひらと捉えどころがない。

 足運びはまるでダンスを踊っているかのようで、ナイフは何度も空を切った。

 サイラスはタイミングを見計らい、オイゲンが突き出してきたナイフをギリギリまで引きつけ、回転するように突きをかわし、背後から襲いかかってきたバーソンの胸に突き刺すように誘導した。

 自身の半身とも言うべき双子の弟を殺してしまったオイゲンはしばし呆然とし、その隙にサイラスが剣で喉を引き裂いて殺してしまう。

 最後に残った暴漢、マルコは恐怖に震えて後ずさった。

「リラ! リラ! 聞こえねえのか! こいつを刺せ! 後ろから刺せ!」

 マルコの悲鳴染みた怒号にサイラスはゲタゲタと笑う。

 何がおかしいと凄むマルコだが、凄むという隙を見せた瞬間にサイラスは肉食捕食動物の様な速さで距離を詰め、その手がマルコの喉を掴んだ。

 気管を圧迫どころではない。そのまま喉を握りつぶす。

「いやあ、ね。後ろから刺せって、口に出して言ったら駄目だろう? ……なあ、お嬢ちゃんもそう思わないかい?」

 マルコの死骸を見下ろしたまま、サイラスが背後のリラに向かって問いかけて、ゆっくりと振り向く。

 子供の玩具のようなナイフを持っているリラが、薄い笑みを湛えてサイラスを見ていたからだ。

⑥"見えず"のサイラス

 ■

 なるほど、とサイラスは思う。

 玄室の扉を開ける前感じた厭な予感はこのことだったのか、と。

 それは命の危険ではなく、厄介事を知らせる虫の囁きだったのだ、と。

 最初の見立て通り、男たちは初心者狩りで間違いないだろう。

 だがリラと名乗る少女もそうなのか? 

 サイラスの見立てでは、リラは狩るというよりも狩られる側である。

 サイラスが事情をきくと、リラは落ち着き払った様子で口を開いた。

「私は……」

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 リラは迷宮都市リベルタから馬車で4、5日の場所にある農村の生まれである。

 村は貧しく、村人は常に飢えている。

 ある年、冬を間近に控えたとある月、リラの家はついに冬の備蓄分にまで手を付けるほどに追い詰められてしまった。

 他の家に恵んでもらうわけにもいかない。

 なぜなら他の家とて同じ様に飢えているのだから。

 狩猟もこの季節では獲物がろくにみつからないだろう。

 なぜこれほどまでに貧しいのかと言えば、それはここ数年続いている飢饉のせいである。

 つまり貧しいのはリラの村だけではなく、周辺地域の農村のほとんどが貧しいのだ。

 こういう事態に陥った時、取れる手段は限られている。

 だがそれはどれもが痛みを伴う手段であった。

 しかし背に腹は代えられない。

 リラの両親はとある決断をしなければいけなかったが、それは彼らにとって苦痛そのものでしかなかった。

 だがその苦痛も長くは続かない。

 リラが自分から言い出したからだ。

「お父さん、お母さん、私ゴンズさんの所へ行くよ」

 ゴンズとは人買いの商人である。

 定期的にこの村へ来てはそれなりの額の金で子供を引き取る。

 子供というのは様々な需要があり、ゴンズはその需要に応じて高値で子供を売り捌いていた。

 そう聞くとゴンズという男は如何にも悪党に聞こえるが、ゴンズはまごう事無き悪党であることには間違いない。

 ただし、彼は大分マシな部類の悪党だ。

 例えば子供を生きたまま調理して、嬲り陵虐しつつ人肉食を愉しむ貴族というのもおり、そういった貴族は子供を非常な高額で買い取るが、ゴンズはそういった者とは取引をしない。

 例えば人手が足りない商家の丁稚や、子供が出来なかった夫婦の養子といった者達と好んで取引をする。

 それは彼の内なる良心がどうこうという話ではなく、一言でいえば保身のためである。

 人買いは金をもっている、そして鬼畜に子供を売り捌いて利益を出している悪党ならば殺しても調査の手は手ぬるいだろう、いっそぶち殺して金を奪ってしまえ……そういう事を考える者がどれほどいるのか、という話だ。

 そんな風に賞金首扱いされやすい立場に身を置くのは好ましくないとゴンズは考えた。

 だから現在のスタイルをとり、それは好評を博し、ゴンズは何とも奇妙な話だが、“良い人買い商人”というような評価まで得ている。

 その辺りの事情はリラの家も知っているのだが、それでも人買いに買われた子供の不幸な末路などは探せば山ほどあるため、恐ろしい事には変わりない。

 リラの両親も本心では人買いなどに娘を売りたくはないが、そうでもしないと自分達はおろか、リラの幼い弟と妹までもが飢えで死ぬ。

 そういう判断もあいまっての事であった。

 §

 で、とサイラスはうんざりした様子でリラに言った。

「お嬢ちゃん……リラはそのゴンズって人買いに買われて馬車で運ばれている最中、野盗……つまりこいつらに襲われておっさんは殺され、お嬢ちゃんはさらわれたって所かい?」

 リラが驚いた様子でサイラスを見る。

 話してもいない事をなぜ知っているのかと。

「あいつらが人買いからモノを買えるほど金に余裕あるならこんなことはしてないし、お嬢ちゃんがちゃんとした奴に買われたっていうならこんな所にいるのはおかしい。だがあいつらとお嬢ちゃんがグルだっていうなら色々と説明はつかぁな」

「……はい。それで、暫くは……色々させられて、それで、この辺では稼げなくなったから迷宮都市に行く、と。迷宮都市には何も知らない探索者が沢山いるからって……死体もすぐに迷宮に呑まれて殺しがバレる事もないって……」

 なるほど、元野盗かとサイラスは改めて得心する。

 五人の暴漢は、すくなくとも新米探索者では到底太刀打ちできない程度の業をもっていたからだ。

 野盗というと雑魚の代名詞に思えるが、これは認識が誤っている。

 商隊やら行商人やら、時には貴族の馬車でさえ襲う彼らは、相応の戦闘能力と連携能力を持っており、少なくとも街のチンピラとは比較にもならないからだ。

 新人は大して金を持ってはいないだろうが、数がいれば話は別だろう。

 それにこの都市では新人が迷宮に呑まれる事なんて日常茶飯事だった。

 新人は無知で未熟だ。

 ギルドでいくら警告を受けようと、その身に危機が差し迫らない限りは本当の意味で警告の意味を理解できない。

 喰い詰めた野盗が迷宮都市で新人を狩るというのは、一定の理があった。

 だが、とサイラスはいぶかし気にリラを見る。

 その視線には警戒が色濃く含まれていた。

 サイラスは、リラが少女であることは警戒を解く理由にはならないと考えているのだ。

「なぜ俺を見て笑ってたんだい? 俺はお嬢ちゃんの仲間を殺したんだぜ……ってああ……そうか……」

 そこまで言ってサイラスは気まずそうに頭を掻いた。

 少女にとって暴漢達は味方でもなんでもない事に今更ながら気付いたからだ。

「はい。あの人たち……あいつらは色々な事を私にしました。男性がしたがるような色々な事を。それだけじゃありません。私は人を殺しました。何人も、何人も殺しました。若い人たちを罠に嵌めました。命令されたからとか、脅されていたからとかは関係ありません。私とあいつらは何も変わらないんです」

 リラと名乗った少女は涙をぽろぽろと流しながら、それでも笑みを崩さなかった。

 男を誘う様な笑みは暴漢達から仕込まれたものだ。

 彼女の若い肉体は暴漢を、色々な客を大いに愉しませた。

 端的にいって、彼女は壊れかけていた。

 そうかい、とサイラスは気だるそうに返事をしてリラに背を向けて玄室を出ていこうとした。

 その背にリラの声が掛けられる。

「私も連れていって貰えませんか?」

「嫌だね。俺は仕事があるんだ」

「私に一人で生きていく術を教えてほしいんです。もう村には帰れません。……いいえ、帰りたくないんです。私は以前の私とは違う私になってしまったので」

 サイラスの返事を聞きもせず、リラは淡々と続けた。

 マイペースなガキだなと思いつつ、サイラスは相手にせずに玄室を出ていった。

 ■

 背後から足音。

 しかしサイラスは警戒しようとはしなかった。

 足跡の主が誰だか分っていたからだ。

 前方からは何かが羽ばたく音。

 蝙蝠だ。

 迷宮に巣食う蝙蝠は野生の蝙蝠よりも二回り大きく、体長は約60センチメートルに達する。

 その翼は広げると約1.5メートルにもなり、暗闇の中で優雅に舞いながら獲物を狩る。

 大きな耳と鋭敏な聴覚を持っていて、微かな音にもすぐに反応する。

 普段は天井の隙間や壁の陰に隠れて休んでいることが多いが、探索者の気配を感じるとたちまち獰猛な狩人へと変貌し、襲い掛かってくる。

 ただ、所詮は蝙蝠であって、こんなものはサイラスの敵ではない。

 野生のそれより遥かに強い凶暴性を見せる蝙蝠が数匹、サイラスに襲い掛かるも瞬間で骸となる。

 背後でそれを見ていたリラは瞠目した。

 サイラスが剣の柄に手をかけたと思えば、次の瞬間に蝙蝠は真っ二つにされ、剣を見ればそれは納められている。

 "酔いどれ騎士"サイラスはかつて騎士団長であった時、"見えず"のサイラスとして畏れられていた。

 目にもとまらぬ抜剣ではなく、目にも映らぬ抜剣が彼の持ち味だった。

 今となってはその業もすっかり錆びついてしまったが、宙空を自在に飛翔する蝙蝠を数匹、一瞬で真っ二つにするくらいなら容易い事だった。

 §

 ──凄い

 サイラスの業を見た感想だった。

 銀色の流星がいくつも流れたかとおもうと、大きくて不気味な蝙蝠達があっというまに地面に落ちたのだ。

 自身の語彙力の少なさに呆れるが、とにかくそれは凄かった。

 以前満天の空に流れ星がいくつも流れた夜があり、幼いリラはその様子をはしゃいで見ていたが、その時の気持ちが思い出されるかのようだった。

 これだけ凄い事ができるなら、きっと人生なんて思いのままだろう……そんな憧憬にも似た思いが胸からこみあげてくる。

 同時に憎しみも。

 理不尽なことだとは自分でも分かっている。

 だが、なぜもっと早く私の前に現れてくれなかったのだと心の奥底のドス黒い自分がけたたましく吠えていた。

「そうさ、俺は凄い」

 背を向けたままのサイラスが言。

「こんな雑魚じゃなく、もっとでかい魔物だって俺の敵じゃない。竜でも首を叩ッきってやらァな」

 でもよ、とサイラスは続けた。

「妻と娘がいた。今はもういない。何処にもいないんだ。凄い俺だってこんなザマさ。人生ってのはそんなモンなのさ。だからお嬢ちゃん、お前も割り切って生きろや」

 リラはその声から僅かな水分もない乾いた荒れ地を想像した。

 その声は疲れた男の声だった。

 人生に、生きる事に疲れた男の声であった。

⑦試し

 ■

 サイラスはやや俯いていたが、不意に前方の薄暗がりを見つめながら言った。

「お嬢ちゃん、戦闘経験はあるかい?」

 リラが首を振るが、サイラスは背を向けている為仕草が見えないだろうと気付く。

 だがリラが"いいえ"と声を出そうとすると、サイラスはそうかい、と返事をした。

(こっちを見なくてもわかるのかな)

 リラは思うが、これは種がある。

 サイラスとしては返事はどちらでも構わなかったのだ。

 戦闘経験があるにせよ、ないにせよ、やらせる内容に変わりはない。

「お嬢ちゃん、足音が聞こえるだろ? 緑小鬼だ。1匹じゃあない。……そうだな、3匹くらいかな。あれを殺れ。3匹ともな。そうしたら拾ってやる」

 この時サイラスは少女が臆するだろうと考える気持ちと、いやあるいは、と考える気持ちを半々に抱いていた。

 前者であるならそれはそれで良かった。

 少女は如何にも"重い"。

 死ぬまでの時間稼ぎをしているような生き方をしているサイラスにとって、少女の重さを抱え込む事は難儀だろう。

 だが後者であるなら"適正"を見る必要がある。

 適正とは何か? 

 短剣の腕か? 

 罠を見抜く注意力か? 

 魔術の冴えか? 

 そういったものも大事かもしれないが、何より大事なものがある。

 それは精神力だ。

 緑小鬼と聞くと、新米ほど第一階層最弱の雑魚だと侮る。

 事実、この魔物は小賢しくはあるが新米でも撃退できる程度には弱い。

 小柄ながら力はあるので組み付かれれば厄介だし、執拗に傷口を狙ってくるという注意点はある。

 しかし動きは直線的だし、特殊な能力を持つわけでもない。

 突撃してきた所を足をかけて転ばせてから短刀でも何でも急所に突き立ててやれば済む話だ。

 しかし、多少なり場数を踏んできた探索者は緑小鬼を侮ったりはしない。

 なぜならば彼等の目を見れば侮って良い存在ではない事がよくわかるからだ。

 憎悪という短い単語だけでは表現しきれないほどに、昏くて刺々しくて、うすら寒い何かが緑小鬼の目には宿っている。

 いや、緑小鬼だけではない。

 迷宮の魔物達全てにそういう感情が宿っている。

 迷宮の魔物たちの中には人語を解する者もおり、一部の能天気な探索者は魔物と交渉を持とうと考える者も居るが、そういう者達の3分の1は殺され、もう3分の1は仲間を殺され、残る3分の1は身体のいずれかの箇所を欠損するなりして二度と馬鹿な事は考えないようになった。

 自身に対する打算の無い憎悪、謂れのない憎悪、理不尽な憎悪。

 そういうものを日々受け続けて平気で居られるか、それが迷宮探索者としての適正だと思って良い。

 サイラスが彼女を緑小鬼にけしかけたのは、その憎悪を受けて精神に変調を来たさないかどうかを確認するためというのもある。

 これは机上ではなく実地で体験しなければ分からない事だ。

 もしビビり散らす様なら、自分が出て行って緑小鬼を蹴散らし、そのまま都市に連れて行って孤児院にでも放り込むつもりだった。

 だがサイラスがそこまで少女の世話を焼いてやる必要がどこにあるのか? 

 それはサイラス自身にも分からない。

 しかし、少女の髪の色は死んだ娘を彼に思い出させた。

 サイラスは内心で自嘲の笑みを浮かべる。

 いつまでも未練ったらしく家族の事で思い悩み、自暴自棄にもなりきれない自身の中途半端な生きざまに。

「ほら、得物は貸してやる。そのボロじゃあ折れちまうかもしれないからな」

 サイラスは腰から小ぶりの鞘に収まった一本の短剣を差し出した。

 それは何の変哲もない短剣だったが、リラの持っている錆びた短剣とは違って、命を奪う為の機能を十全に備えているように見えた。

 リラは恐る恐る短剣を受け取り、鞘を引き抜く。

 刀身は良く研がれている。

 鈍色の光が"お前は本当の意味で奪う側になったのだ"と告げている様にリラには思えた。

 迷宮の薄暗がりの奥から足音が近づいてくる。

 ひた、ひた、ひた、と。

 やがて影から醜悪な三匹の小鬼が現れた。

 デコボコとした緑色の皮膚、鋭い爪。

 血の様に赤い瞳には憎悪が揺れている。

「農村の生まれかい? 筋肉の付き方で分かる。奴等は野犬より馬鹿だが野犬より危険だ。傷口を狙ってくる習性がある。無傷の相手には小賢しい真似をしてくるんだが、血の匂いがする相手にまっすぐ突っ込んでくるぞ。例えばその腕の傷だ。あいつらにやられたな」

 サイラスは迷宮の壁に寄りかかってリラを見つめながら言った。

「お嬢ちゃん、短剣は斬るんじゃなくて突くもんだ。寝首を掻くなら話は別だけどな」

 ■

 リラは自分でも特に意識していたわけではなかったが、これまでの事を思い出していた。

 村での暮らし、だんだんと貧しく、苦しくなっていく日々。

 身売り。

 商人の馬車に乗り込んだ時の心細さ。

 馬車が襲われ、男たちに攫われた時の恐怖。

 心と体をこれ以上ないほどに蹂躙され、死のうとして尖った石片を喉に当てた所で男たちにバレて、さんざんに殴られた時の痛み。

 彼女はさんざんに殴られ、散々に犯された。

 絶望に色があるなら、あの時下腹部から漏れ出るドス黒い血のような色をしているのだろう……リラは我知らずに歯を食いしばる。

 やがて街道は警戒され、思うように"獲物"を襲えなくなると、男たちは迷宮都市に移動した。

 他の街道は既に別のならずものの縄張りだったからだ。

 都市に来てからは新米冒険者を相手に"客"を取った。

 勿論男たちの指示だ。

 リラは自身の神経回路に恐怖と屈辱、怒りと憎悪の混合物が流れるのを感じた。

 戦え、殺せ、人生を変えろ

 リラの視野が憎悪で急速に狭窄していく。

 ・
 ・
 ・

 リラは不意に自身の眼前に醜い顔が迫っている事に気付いた。

 集中できていなかったのだ。

 緑小鬼の一匹が、リラの腕の怪我を見て興奮して突進してきた。

 小鬼が突進してきたらどう動こう、ああ動こう、こう動こうという算段はあったが、リラはどれ一つとして実行できなかった。

 決定的に実戦経験が足りない。

 その時頭をよぎったのはサイラスの言葉だ。

『お嬢ちゃん、短剣は斬るんじゃなくて突くもんだ。寝首を掻くなら話は別だけどな』

 色々な偶然が一致したのだろう、リラがつたないながらも突き出した短剣は、その切っ先を緑小鬼の向かって左目に深々と突き刺さった。

 血ではない生温かい液体と、血と。

 そして苦痛に満ちた絶叫がリラへ降り注ぐ。

 残る緑小鬼達はその絶叫に瞬間足止めされ、憎悪に濁らせた彼らの瞳に僅かな恐怖の色が浮かんだ。

 しかしリラの心身は緑小鬼たちのように凍りついたりはしない。

 リラは殺しが初めてではないのだ。

 といっても誰かと戦って殺害したのではなく、男たちが散々に嬲った"獲物"をリラが止めを刺しただけではあるが。

 それでも人殺しには変わりはない。

 男達はリラに共犯者意識を植え付けるために彼女の手を汚させた。

 リラの深層意識が『"これ"が最後だ』と囁く。

 要するに、"これ"が体と心、尊厳を穢されてきた自分が、僅かにでもまともに生きるチャンスだということだ。

 リラは目の端に涙を浮かべながら叫んだ。

「私の、邪魔をするな!!!」

 リラは自身でも制御できない激情のままに緑小鬼達に飛び掛かる。

 ■

 悲壮感すら漂うリラの様子にサイラスは辟易した。

 なぜ世界はこれほどまでに不幸で溢れているのだろうか、と思わざるを得なかった。

 眼前では滑稽な死闘が繰り広げられている。

 サイラスがどれ程手を抜こうと緑小鬼とあれほど接戦を演じる事はできないだろう。

 迷宮の魔物に対して油断は出来ないが、雑魚が雑魚である事実には変わりはない。

 そんな雑魚にリラは苦戦している。

 偶然にも1匹上手く仕留められたようだが、後は泥死合も良い所であった。

 リラは2匹から責め立てられ、全身が傷だらけだ。

 だが緑小鬼たちも無傷ではない。

 でたらめに振り回された短剣が皮膚を切り、肉を裂いている。

 サイラスはリラがもし臆したなら彼女を少なくとも孤児院には連れていこうとは思っていたが、自分から危地に飛び込んだのならば手を出すつもりはなかった。

 仮にリラが緑小鬼に殺されてしまったとしてもだ。

 しかし、とサイラスは思う。

 ──俺がここであの嬢ちゃんを見捨てるとする

 ──それはどうなんだ? 俺がくたばった後、ユリアとエマに逢えるのか? 

 ──嬢ちゃんをけしかけたのは俺だ。嬢ちゃんを助ける事も難しい事じゃあない

 ──ここで嬢ちゃんを見捨てるのは、はて、もしかしたら悪い事じゃないのか? 

 サイラスが見ている前で、リラは小鬼2匹に押され始めていた。

 1匹が足に組み付き、もう1匹がリラを押し倒す。

 リラは転倒し、その拍子でサイラスと視線が合った。

 助けを求められたなら助けよう、などとサイラスは考えたが、リラは一向に助けを求めようとしない。

 ・
 ・
 ・

 ユリアとエマとはサイラスの亡き妻、そして亡き娘の名前だ。

 何より大切な家族が死に絶えて以来、サイラスは死に場所を探している。大切な者亡き世界に生きている意味を見出せなかった。

 自殺は駄目だ、自殺をした者の魂は昏い地の底に堕ちて行ってしまうというから。

 だが"良き者"は死後に天に昇るという。

 ユリアとエマはサイラスにとって"良き者"そのものであり、彼は妻と娘に逢いたいと願ってやまない。

 "良き者"となる必要があるのはサイラスにも分かる。

 だが何をすれば"良き者"になれるのか? 

 それが彼にはわからなかった。

 実力差も分からず絡んできた馬鹿を見逃すのも、実力不相応なまま迷宮に挑んで、見事に玉砕した間抜けの遺品をひろってくるなんていう依頼をこなすのも、彼なりに"良き者"になろうとした努力の結果である。

 ・
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 ・

 緑小鬼がリラの首筋に食いつこうとしている。

 それを見たサイラスは、まるで散歩でも行くような歩調でリラの方へと歩き出した。

 ■

 剥き出しの牙、首筋に迫る醜悪な緑の顔に、リラは男たちのそれを重ねた。

 同時に、自身に暴虐の限りを振るってきた男たちの死に様がリラの脳裏を過ぎる。

 男たちは決して弱くはなかった。

 野盗時代、行商を幾度も襲ったが護衛がいた事も珍しくはないが、時には押し、時には引き、脅し、すかし、騙し、略奪を成功させてきた。

 野盗団は多くのならず者を抱えていたが、都市に来たのは頭目と幹部を含めて5人だけである。

 それが男たちで、無能であるはずがなかった。

 昨今はどこもかしこも戦争なりなんなりで殺伐した世の中だ。

 男たちは表向きは戦火をさけて都市から移動してきた新米探索者集団で、日々新米が消える数を計算しながら不自然にならない程度に"ハメ"てきた。

 そんな彼等を他愛もなく皆殺しにしてしまったサイラスに、リラは陳腐な言い方だが運命を感じてしまったのだ。

 それは男女の情などという甘ッちょろいものではなく、人生を変える分水嶺ともいうべき切羽詰まったものであった。

 この先の人生を死んだ様に生きるくらいなら、まともに生きようと希望を持って死んだほうがマシだとリラの心は叫び、どうあっても助けを呼ぶことを拒絶していた。

 そして緑小鬼の牙がリラの華奢な首に触れた瞬間、ゴツンという鈍い音が顔の横で響いた。

 リラはふと顔の横を見て声をあげそうになる。

 それは緑小鬼の首だった。

 だがその目はぎょろぎょろと動き回っている。

 まるで死んだことに気付いていないかのようだった。

 緑小鬼は首を落としたまま佇んでいる自身の肉体を見て一瞬困惑を浮かべ、続いて爆発的な恐怖で破裂しそうになった瞬間、その時ようやく瞳から生命の気配が消えた。

 サイラスがリラの襟首がつかみ、強引に立たせる。

 それと同時に地面に斃れた緑小鬼の首の切断面から血が溢れだし、周辺に悪臭が立ち込めた。

 緑小鬼の血は臭いのだ。

 衣服に付着すればその服は使いモノにならなくなるだろう。

 だから少し工夫して殺した。

 リラがあっけにとられてもう一匹の方をみれば、そちらの緑小鬼も首を断たれている。

 自身が助けられたのだという事実はリラを安堵させることはなかった。3匹とも殺せという条件を満たしていなかったからだ。

 もう一度チャンスを請おうとするリラにサイラスが言う。

「サイラスだ。多少は仕込んでやる。俺はお前を犯したりはしないが、覚えが悪いようなら殴る事もある。辛ければ逃げるといい」

「私は、リラ……です」

 そうかい、とサイラスは答え、背を向けてその場を去ろうとした。

 足取りは早く、その背は迷宮の薄暗がりに消えようとしている。

 リラはついていっても良いものかどうか悩むが、それも僅かな間の事。

 過去を振り切るようにサイラスの背を追っていった。

⑧訓練の日々

 ■

 サイラスはリラを殴ったりはしなかった。

 ただただ只管に走らせた。

 迷宮都市は巨大な円形都市で、形状に沿って外壁が建てられているのだが、その外壁に沿ってリラを走らせたのだ。

 迷宮都市リベルタの外壁は、その頑強さと繁栄を示すとともに、外界からの危険から住民を守る盾となっている。

 ただ、迷宮都市リベルタにとっての危険とは他国やそれに準じた侵略者だけを意味するのではなく、もっと危険で悍ましいモノをも想定していたが……。

 また、都市の外部には迷宮の入口がある。

 街の者たちはこれを"街外れ"と呼んでいる。

 まるで洞窟の様な外観だが、巨大な鋼鉄の扉が据え付けられており、探索者ギルドの実戦部隊に所属する職員、通称"白バケツ"が常に二名見張りについていた。

 無論白バケツというのはギルドの犬である彼等に対しての蔑称だ。

 白バケツは白銀一色の重装鎧を身に纏っているのだが、兜の形状がやや個性的で、まるでバケツのような形をしていた。

 それが彼等に対する蔑称の由来だ。

 しかし陰口を叩くだけで、直接彼等に対して実力行使をしようというものはいない。

 いや、いないというのは語弊があるかもしれない。いないのではなく、居なくなるというのが正しい。

 彼等白バケツは探索者が迷宮の入口を訪れると扉を開き、そして閉める。だが彼等は単なる門番ではない。

 単なる門番が邪悪に対して強い抵抗力を持つという白光銀の全身鎧などを身に着けるだろうか? 

 また単なる門番の業前が、小国とはいえ元騎士団長であるサイラスをして死を覚悟して、1対1なら或いはと言わしめるほどに鋭いものだろうか? 

 探索者達の間では彼等"白バケツ"は何に備えているのだと言う話が広がっている。

 しかし何に備えているのか? という話になるとそれ以上話が進まない。

 それは殆どの者が知らないからだが、ごく少数の事情を知っている者は決して真相を口にしないでもある。

 ■

「ほら、走れ走れ。メシを喰いながら走れ、水を飲みながら走れ。小便がしたければ走りながらしろ。でかいほうなら……まあその時は言え」

 サイラスとリラが出会ってから一週間目。

 サイラスはリラを毎日走らせていた。

 10キロ20キロの話ではない。

 リラが失神してその場に倒れるまで走らせていた。

 リラは農村の出という事で基礎体力はあるのだが、それでも異常なまでの走り込みの密度の前では基礎体力などというしゃらくさいモノは糞の役にも立たなかった。

 リラは苦しくても辛くても決して立ち止まらなかった。

 いや、立ち止まれなかった。

 というのも、くじけそうになると、サイラスが真横に走ってきて彼女の瞳をのぞき込むのだ。

 その視線は何かを見定めているようにリラには見えた。

 汗に塗れたリラは上衣が濡れ、その下が透けて見えるという破廉恥ぶりなのだが、サイラスの視線には好色の光は一切宿っていない。

 例えるならば何かしらの玩具を前にして、それがもう不要なゴミなのか、それともまだ使えるのかを見定めるかのような。

 しかし、その無機質な視線がリラには心地よかった。

 リラは彼女の知る限り、女で居て良かったことなど一つもなかったからだ。

 サイラスは常に気だるそうで、それでいてこちらに気を許そうとしていない事がアリアリと分かるような態度だが、それでも口に出した事は守ってくれるらしい……そうリラは解釈し、サイラスへの信頼感を強めていった。

 自分は不要なゴミではない、そう奮起するリラは体力の限りをつくしてサイラスの指示に従おうと賢明に脚を動かす。

 だが、それでも小娘の体力などはたかが知れている。

 体力の非常な酷使に堪え兼ねてリラが気を失うと、次に目を覚ました時には柔らかい寝床の上に寝かされて、体の各所には薬草の軟膏のようなものが塗られていたりした。

 そして決まって部屋の隅の椅子にはサイラスが座っていて本を読んで居たりするのだ。

 当初、自身が気を失っている隙にサイラスがいかがわしい事をしてきたんじゃないかと勘ぐったリラだが、あれだけ体を酷使してもそこまで厳しい筋肉痛がない事に気付くと疑念も消えた。

 サイラス曰く「筋肉の再構築を早める迷宮都市限定の薬だ。それなりに高いが、お前さんを鍛えると約束した。これで明日も休むことなく走る事ができるぞ。吐きながらでも走ってもらうから覚悟しておけよ」 との事だった。

 ・
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 そんな日々を幾つも重ね、気付けばリラは失神せずに迷宮都市を一周できる程度には体力がついていた。

 この時には両者は名前で呼び合い、比較的良好な人間関係が築かれていた。

「私、ちゃんと出来ているかな」

 ある日、いつもの走り込みの後、リラがおずおずとサイラスに尋ねた。場所は寝床ではない。

 食堂である。

 サイラスはリラが失神しないようになると、彼女の胃袋がはちきれんばかりの食事を食べさせた。

 よく運動させ、よく食べさせ……残るは当然睡眠である。

「おう、リラくらいの年齢にしては上出来だ。だがまだまだだな。食ったら朝まで寝ろ。寝ると決めた瞬間寝れるようにするのも訓練のうちだ」

 リラはとたんにジト目となり、サイラスを睨むも言う事に逆らったりはしない。

 サイラスはやるべき事を一方的に命じるのではなく、説明とその結果をリラに伝える事を怠らなかった。

 これだけ走り込めばこの頃にはこの程度の体力はついている、その程度の体力があればこれこれこういう訓練に進む事が出来る……といった論理的な説明はリラを納得させた。

 ゴールの見えない努力は苦痛を伴い、やる気を減退させるという事をサイラスは良く知っている。

 この辺りの指導の上手さは彼の元騎士団長という前歴が関係しているのだろう。

 とはいえ、リラも不満が無かったわけではないが

 この頃のリラにとっては走り込みよりもむしろ食事と睡眠のほうが大変だったからだ。

 ■

 ある日、サイラスがリラを迷宮の第一層へと連れてきた。

 そこは長く伸びる一本道の通路で、側壁の岩壁には等間隔で明かりが設置してある。

 ギルドが設置したわけではなく、奇特な探索者が設置したわけでもないその明かりは、"消えない松明"と呼ばれていた。

 見た目は松明で、触れば熱い。

 しかし消えない。

 多くの新米がその松明を持ち帰ろうとしたが、皆諦めた。

 壁から決して外れないからだ。

「この通路を真っ直ぐ歩け。暫く歩いていると正面に蝙蝠の石像が置いてある。それをしっかりと観察しろ。触るなよ。見るだけでいい。そうしたら来た道を真っ直ぐ戻って来い。簡単だろ? 魔物は出ないから安心しろ。ただし……何も出てこないからって、何も起こらないわけじゃない。常に注意を払う事だ、床に、壁に、天井に」

 サイラスの言葉にリラは頷き、同時に"過保護だな"と可笑しくもなった。

 サイラスが罠の存在を強く示唆しているのは流石にリラでも気付く。

「分かった。気を付ける」

 リラは短く答え、通路の奥へと進んでいった。

 ・
 ・
 ・

 この通路は通称"試しの道"という。

 試し道がどういう道なのかといえば、雑に言ってしまうと初心者育成用の通路である。

 この道中はいくつもの非致死性の罠が張り巡らされており、これは罠のあしらいを身に着けるのにはうってつけであった。

 さらに通路の最奥には巨大な蝙蝠の石像が鎮座しているが、こちらは触れると像にかけられている石化の呪いが解け、巨大な吸血蝙蝠と化して襲われるという代物だ。

 だがこの蝙蝠は何度も斃しても再び迷宮を訪れる時には元の石像へと戻っており、初心者が戦闘経験を積むのに使われていたりする。

 ただ、探索者目線からすればこれらは初心者育成用の都合の良い設備でしかないのだが、一般人などからすれば十分脅威だ。

 迷宮とはそもそも古代王国の墳墓である、という点を鑑みれば、これらは都合の良い育成設備ではなく木っ端盗掘者除けの罠の数々だと考える方が自然……と、探索者ギルドの職員などは言う。

⑨背

 ■

 "試しの道"には幾つかの罠が仕掛けてある。

 それらは非致死性で、かかれば即座に死ぬという事はない。

 しかし、例えばボウ・トラップで脛部分を射貫かれたりした場合、とてもではないが"軽傷で済んだ"とは言えないだろう。

 つまり、非致死性とは即座に死なないだけで危険な罠である事には変わりはないのだ。

 通路を進んですぐにリラは立ち止った。

 それはいつか受けたサイラスの教えが頭を過ぎったからだ。

『いいかぁ、リラ。どういう場所にどんな罠が仕掛けてあるか……そういう事を覚えるよりも、もっと根本的な事を考えるんだ。罠にかかる時っていうのはどういう時だ? ……そうだな、油断している時だ。迷宮の罠はその辺に忠実だ。まさかこんなタイミングでこんな場所に罠が仕掛けられているなんてことはないだろう、そういう先入観を突いてくる。もしくは……そうだな、罠だって頭では分かってはいても、進まざるを得ないような時とかな』

 今はどうだろうか、とリラは考える。

 罠が張られている通路とはいえ、足を踏み出した瞬間に罠に引っかかるなんて事があれば、それは意外な事だとは言えないだろうか? 

 リラはかがみ込み、目を凝らした。

 すると膝の高さのあたりの空間に細い糸が張られているのを見つけた。

 左右を見る。

 左方向の岩壁、壁掛け松明が据え付けられている金具の横に穴が開いていた。

 例えば細身の矢とかならば、その穴から発射されてもおかしくはない。

 リラは慎重に糸を跨ぎ、ほっと安堵の息をつこうとしたがすぐに表情を引き締める。

 罠が一つだけだとは限らないからだ。

 注意深く周辺を観察し、そして二つ目の罠がない事を確認するとゆっくりと通路の奥へ進んでいった。

 ■

 サイラスは迷宮の闇に消えていったリラの背を見ながら、ひとつため息をつく。

 彼は自分でも思った以上にリラに肩入れをしている事を自覚していた。

 そしてその理由は、リラに死んだ娘の面影を見ているからだという事にも彼は気づいている。

 ──でもよ、そこまでならいいんだ。そこまでなら俺はただの哀れな中年というだけで済む。でもよ……

 彼がため息をついているのは、それは自身の思い込みでしかないという事を理解していたからである。

 髪の色が同じ……だからどうした? 

 生きていればリラと同じ位の年か少し上……だからどうした? 

 都市を探せばいくらでも同じ条件の娘などは見つかるだろう。

 サイラスがため息をつき、胆汁のような自己嫌悪の苦味を精神の味蕾で感得している理由とは、彼がリラを娘の代替品として見ているという情けない事実をサイラス自身誰よりもよく分かっていたからである。

 ──哀れな中年ならいい。哀れで卑怯な中年なんて救いようがないじゃねえか、なあ? 

 だが最初からそんな心境だったわけではない。

 ではいつ、どのタイミングで変節したのだろう……そうサイラスは考えるが、答えは出ない。

 しかし、リラの境遇が彼自身の境遇にどこか重なる部分があったからというのは間違いないだろう。

 リラにもサイラスにも、家族と呼べる者はいないのだ。

 いや、リラにはまだ家族がいる。

 サイラスのように代替の家族ではなく、本当の家族が。

 しかし、サイラスはまだその事を深く考えたくはなかった。

 ■

 やがてリラが通路の奥から戻ってくる気配がすると、サイラスは自己嫌悪の沼から這い出て平静を装った。

 小さな足音が薄暗がりの奥から響いてくる。

 ──怪我でもしたかね

「待たせたかな。ちゃんと見てきたよ」

 リラが言う。

 サイラスは頷き、どうだった? と尋ねた。

「なんていうか……怖かった。石の像なのに、いまにも襲い掛かってきそうで」

「まあな。あれは触れると石化が解けて襲い掛かってくる。今はまだ早いが、そのうち奴を仕留めてもらうぞ。それでやっと……そうだなあ、半人前は半歩卒業ってところだ。それより左足はどうした?」

 サイラスが尋ねると、リラはバツが悪そうに俯き、そして小さい声で言った。

「なんか……石が飛んできて。床のでっぱりを踏んじゃって……」

「石ね、じゃあ毒は心配しなくてよさそうだな。見せな」

 返事を待たず、サイラスはかがみ込み、リラの靴を脱がせた。

 足首が赤く腫れている。

「まあ、丁度良い怪我だと思っておけ。いいか? この包帯をな……こうして、こう巻いて、こう縛る。力加減も感覚で覚えておけよ」

 サイラスは腰元に吊るしてある道具袋から包帯を一巻き取り出し、リラの足首を固定するようにして応急手当をしはじめた。

 ちなみに世の中には治癒の魔術というものもあるが、これは教会が独占している秘匿技術であるためサイラスには使えない。

 リラはしっかり手当された自身の足首を見て、どこか落ち着かない気持ちになる。

 今、サイラスから受けた手当だけではなく、サイラスから受けた有形無形の恩に対して、感謝の念と同量のねばついた不快な何かが胸をざわつかせていたからだ。

 不快な何か……それは不安感に他ならない。

 ──私は、サイラスに何も返せていない

 受けた恩をどのように返せばいいのか。

 もし恩を返せなければ自分はどうなるのか。

 見捨てられてしまいやしないか。

 当初はサイラスを利用しようと考えていたリラだったが、この時には既にその気持ちを失っていた。

 サイラスは彼女にとって師となるが、同時に兄のようでもあり、父のようでもあった。

 しかし、"では彼は自分にとって何だ"と言われると答えは出ない。

 大切な存在だ、と一言で言えればいいが、リラは"大切"という言葉の意味が良く分からない。

 幼少時、彼女の両親はリラを大切にしてきたかもしれないが、その何倍もの時間を彼女は大切にされないで過ごしてきたのだ。

 膨大な負の時間が"大切"という言葉の意味を彼女の辞書から消し去ってしまっていた。

 サイラスに見捨てられたくない、その思いがリラの表情を曇らせる。

 だが、そんなリラの表情を見たサイラスは少し厳しい口調で言った。

「そんなに痛むようなら口に出せ。我慢をするな。いいか、我慢っていうのはしなきゃいけない時としなくてもいい時がある。我慢しなきゃいけない時に我慢できない奴はいつか破滅するが、我慢しなくていい時に我慢する奴もいつかは破滅するんだ。これは探索者としてだけの話じゃないぞ」

 そういうとサイラスはリラを抱き上げて、器用に背に背負った。

 慌てておろすように頼むリラだがサイラスは聞き入れない。

 リラは抵抗を諦め、サイラスの背に身を預けた。

 広く、安心できる背中だ。

 リラは我知らず、サイラスの首に回す腕に力を込めた。

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