A key will lock you #短編小説
「いまから、とても素敵で退屈なラブストーリーを紹介するわ」
彼女は言った。僕らは、休日の昼下がり、薄暗いカフェでホットワインを飲んでいる。外は良く晴れているが、北風が冷たい。薄着をしていた僕らは、風に追い立てられるようにカフェに入り、甘くてスパイシーなアルコールによって体を温めていた。貴重な11月の日光を浴びずに、薄暗い店で午後を過ごしていると、それだけで怠惰なぜいたくをしている気分になる。
「主役は、この、鍵なの。どこにでもある、自転車のチェーンロックの鍵。ほら、私の緑色の自転車、知っているでしょう?これは、あの自転車につけてる、チェーンロックの、鍵。」
彼女がそう言って机の上に置いたのは、小さな金属製の鍵だった。
——いや、果たして鍵なのだろうか。その小さな金属には、確かにシリンダー錠に合うように溝が刻まれ、凹凸があるが、知っている鍵の形ではない。ただ細長い、金属の枝のような形をしていた。どちらかといえば、釘や細いネジのように見える。
そう、キーホルダーをつけたりするための持ち手、「ツマミ」部分が、そっくりないのである。
「もともとはね、この鍵にも、当たり前だけれど、ツマミがついていたの。プラスチック製の。——ねぇ、そういえばプラスチックと合成樹脂って同じものなの?樹脂製って言った方が格好いいかな?え、どっちでもいい?そうね、鍵のツマミの話よね。
でね、そのツマミなんだけど、ある日ぶつけてしまって、そしたら割れて、なくなってしまったの。そうして、鍵の金属部分だけが残ったっていうわけ。そそっかしいって、いやだよね。でもね、退屈なラブストーリーは、そこから始まるのよ。」
*
僕は、鍵である。
比喩ではない。僕は、シリンダー錠の鍵である。「あのひと」こと、シリンダー錠と僕は、チェーンロックとして、これまで自転車を盗難から守るという役割をこなしてきた。
僕とあのひとは、唯一無二の、運命の相手である。
これも、比喩ではない。あのひとに合うのは僕と、僕のスペアキーだけ。スペアキーは、僕の情報をもとに、全く同じ情報でもって作られた、いわば僕のクローンのようなものだから、やっぱり僕自身だ。工業製品である僕には、ヒトたちが議論するような、倫理的な問題は存在しない。スペアキーだって、僕自身だ。
僕と僕のスペアキー以外、あのひとの錠にカチリとはまって、錠を回す役割をもつものはいない。あのひとに他の鍵を合わせようとしたところで、あのひととは、決して合わさらない。
僕はあのひとのために作られ、存在している。そして、あのひとも、ただ、僕と共にあるために作られ、存在している。
けれども、僕とあのひとの関係性は、ある日、少しだけ変わる。ヒトの不注意と、経年劣化によって、僕は合成樹脂製のツマミ部分を失ってしまったからだ。
実のところ、ツマミは僕の本質とはなんら関係はない。僕の本質は、ボルト部分のネジにあり、それこそが、あのひとと僕を、互いに唯一の存在としているものなのだから。
だが、ツマミの損失を、全く気にしないか、といえば、そういうわけでもない。ツマミに刻まれたいくつかの傷が示すように、ツマミは、僕が鍵として誕生したときから共にある存在なのだ。僕のツマミは、あのひとのチェーンに巻かれたプラスチック製品と、同じ工場で作られている。同じ証を一つ、失くしたことには、違和感がある。ついでに、ヒトは、愚かにも、ツマミなくしては、僕を鍵として識別することが難しくなる、と聞く。
だから、僕は不安だった。僕には、そもそも感情はないので、「不安」という表現は不適切かもしれない。だが、ツマミの欠損は、どこか僕を不完全なものにさせ、変わらずに完全であるあのひととは、何かしら「合わなく」なってしまうのではないかと、感じさせた。
欠損の日から一日経って、あのひとに会った。けれども、あのひとはなにも変わらなかった。あのひとは、こう言った。
「だって、私たちはふたりで一つじゃない。ツマミの損失は、たしかに考えようによってはあなたを不完全にするけれども、私はそうは思わない。私にとってあなたはいつだって完全なのよ。
知っているでしょう?私はあなたのために作られていて、あなたも、私のために作られ、存在している。私がカチリとなるのは、あなたと一緒のときだけなのよ。」
*
「そうして、ふたりは、それからも、ずっと仲良く暮らしましたとさ。めでたしめでたし。」
僕がホットワインを飲み終わるころ、彼女の話は、なぜか昔話風に終わった。ひんやりとしたマグカップの底には、赤い縁取りとスパイスの粉が少し、残っている。
「でも、鍵、実際のところ、このままじゃ持ちにくいでしょう?簡単に、何かとボンドでくっつけてどうにかしようかと思ったけれど、ちょっとだけ工夫することにしたの。この鍵専用に、レジン細工でツマミ兼キーホルダーでも作ろうかと思っているの。
そうしたら、私はもっと鍵と錠に愛着が沸いて好きになるし、そうしたら、多分長く使い続けるから、ふたりが一緒にいられる時間が長くなるでしょう?」
彼女はそう言って、残っていたワインを飲み干した。
僕らは、薄暗い昼下がりのカフェで、自我をもたない鍵と錠のカップルに、そっと祝福を送った。
*
お読みいただきありがとうございました。気に入っていただければ、リアクションや活動サポートをいただけると、とてもうれしいです。
サポートは、自分と家族のほっこり代に使わせていただきます。 本当にありがとうございます。うれしいです。