かつての「個性」、今「集団」

あり過ぎるのもどうかと思うが、「個性」。
まぁ、ないよりはいい。
全くないと印象に残らずに、「〇〇さん」。
話の中で登場した時、「えっ?〇〇さん?」「誰?」。最悪「そんなのいたっけ?」となってくる。

が「帰属性」。
相も変わらず「みんなと一緒」。仕事が絡めば「集団、集団」。「あんまり目立つな、遅れるな」。
「仕事は、チームでやるもんだ」=先に書いた「個性」というか、「他との差別化」。
「わたしとあなたは違うのよ。似て非なる者同士なのね」的考え方は、どうも浸透されにくい。
が「当たり前」。もっと光を!ならぬ、個性を差別化を!
星に願いを、ばかりの勢いで、じゃんじゃん差別化。他との違いを強調していたのが、姓字(みよじ)。漢字表記の代表格だ。

同じものを使っていても、「読み」を変えたり、逆であったり。同じ漢字表記をしていても、様々な読ませ方をしてみたり。
それはそれはの大騒動。個性&オリジナルのオンパレードみたいである。

「なかむら」ひとつにしてみても「中村」やら「仲村」。
囲碁の菫ちゃんは「中邑」だったか?「中邨」と書く人もいる。
「田上」=「たがみ」。ノンノン、「たのうえ」さんっておられますよね。

生活では「みんなと一緒」でありながら、何故、姓字(みよじ)。
漢字表記は、こんなにあるのか?違うのか?

生命が宿ると考えられていたからだ。
形あるものはいつか必ず壊れるが、+名前(姓字)。形があって名前があるもの=狙われる。壊れる前に、お命頂戴。もののけによる憑依なのか、通りすがりによる殺害なのか?
流行り病や疫病によってなのかは分からないけど、兎にも角にも狙われる。
危ないッ!
だったら完璧自己防衛(?)。
敵の目を欺(あざむ)く。完璧ではない記憶力に期待して、独自性。
他と同じであってはいけない。同じだと簡単に狙われるから、「こうしよう」「ああしよう」
「こう書いたら」「読ませよう。少しヒネてるけど」。
自己防衛が目出度く確立。目出度く継承され(?)、現代に続くのだ。

いけない思い。由々しき思想だが、もし。
姓字だけでなく、人も狙われる。「他人と同じばかりをしていると、狙われちゃうかも知れない。多少は人と違っていた方がいい。印象に残るしね」

当時、浸透していたなら、集団の中。仕事が関係していても、個性が評価されていたのかも知れない。

<了>


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