日本のおかま(?)第一号~土佐日記(紀貫之著/角川書店刊)~
断っておくが、その傾向の人々を揶揄している訳ではない。
「土佐日記」=紀貴之(きのつらゆき)。非常に短い日記文。短文だけを繋げたようだ。「その後の女流文学に影響を与えた」学校で習う。一般的になっている。「女の私が、、、」書き出しである。
書店で購入しようと思ったら一寸、意地悪をして店員さんに聞いてみるのもいい。「この本屋で、一番薄い文庫本って何ですか?」と。
角川ソフィア文庫の「ビギナーズ・クラシックス」に入っている。
完璧、女。
最初から最後迄、完璧に女性。しかも妙齢だと思わせるのが、まず、凄い。
当然貴之は、男である。レッキとしたおじさん、というかおじいさん。翁(おきな)。にも拘わらず、ここまで自分を変身させる。「へえ~ん、しぃ~ん!」正義の味方・仮面ライダーか、「ハニー・フラッシュ!」愛の戦士・キューティー・ハニーが如く、文(ふみ)の世界で、彩りを添える。
妙齢な山姥(か、どうかは分からないが)ギャル、もとい。たおやかさと雅(みやび)やか、艶(あで)やかで育った女性になりきるのが、素晴らしい。ものの見方や考え方、思考がまるで80歳、書く文章は殆どおじさんと時に言われる、女の子。女の子ちゃんであるわたしに、その能力を少しは分けて欲しいと願う。ただ、感服するだけである。
どうしてこのような感覚に陥ったのか?ふと思う。
調べてゆくと、思いつきというよりも、境遇。
「ああ、何で男に生まれてしまったんだろうか、俺は」「女の方がいいよ、俺は」悲痛にも近い、心の叫びが聞こえて来る。
「6歌仙」万葉集の中で数えられる1人として、貫之は知られている。
「〇歌仙」12だの、48だの言われたりもするが、多くは早い内から出世。割と早い時期から、トントン拍子に出世し注目を浴びるが、貫之には無縁だ。
「あくそ」漢字表記が思い出せないが、幼名からして、宜しくない。
「鬼若」だの「今若」、「梵天」。すぐ変わるとの認識があるからか、当時、相当な身分の赤ん坊。跡継ぎになる赤ん坊に授けられる名前。幼名は何か凄い。すさまじい。各々の後につく「丸」は省略したが、「幼い男の子」。「鬼若」「今若」は、「牛若」。源義経の兄達の幼名。「梵天」は、伊達政宗だが、サボテンの名前にもつけられる。
そんな話はさてを置き。
「ああ、女だったら」
地位や名誉に左右されずに生きられるのに。烏帽子を被り、朝廷のご機嫌を伺うこともなかったのにと、若き日の貴之は、溜め息をついていたのではなかろうか?「土佐日記」齢、70近い頃に書き始めたものである。
(だったら女になってやる!文の中で、俺は女。)女の文を書いてやるのだ!
かくして生まれたのではとも思うのだ。
歌舞伎の世界は、女は継げない。
絶世の美女、妖艶な悪女を演じるのも全て男性なのである。
宝塚は、全て女性と決まっている。
ケチも、女ったらしも、悪人も、キャストは全部、女性である。
それをヒントに生まれた名作が「リボンの騎士」であるけれど、貫之の世にはなかった。
「男性の貴之様が、お書きになったもの‥だわねぇ」
「何なのかしら、この文体」
発表された当時の評判を聞いてみたいような気もしてくる。
「日本のおかま・第一号」
なんて本もあるけれど、元祖は貴之なのではないだろうか。
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