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イメコンって令和の価値観にあってるの?-自己肯定感とルッキズムから考える-

はじめに-イメコンとは-

洋服や化粧に興味がある方なら、イエベ春、とかブルベ冬などの言葉を聞いたことがあるだろう。パーソナルカラーや骨格、顔タイプやPDなど、イメコンの枠組みや流派は様々であるが、そのどれもに共通しているのが、その人の見た目を複数のうちその人が似合う一つ(診断によっては二つ以上)のタイプに分類するというものである。また、大半のイメコンはその人が「似合う」ものを診断し分類されるだけでなく、より個人的でその人オリジナルのアドバイスをもらえる。自分だけのために作られたアドバイスを貰えることが多い。

イメコンは「似合う」、つまり、より「美しく見える」ことを目的としているためルッキズムを助長するものと言えるかもしれない。近年ルッキズムは問題視されがちなトピックとしてさまざまな場所で議論の俎上に上がっている。
このnoteでは、私が多くのイメコン診断を受けた個人的な体験から、イメコンとは実際何なのか。ルッキズムを否定する令和においてどのような役割を果たすのかについて考える。

1.私のイメコン診断結果

私はこれまで、パーソナルカラー、骨格、顔タイプ、PD(マチュアリズム系列)、パリ流の診断を受けてきた。その診断結果は、心から納得できるものもあれば、あくまで参考程度に留めているものまである。ただ、これらの診断全てが私を自己卑下から解放してくれたことは確かだ。

ここで私のイメコンスペックを紹介する。これを見れば、イメコンをある程度齧った人であれば私の似合うものが分かると思う。

パーソナルカラー:4分割:ブルベ冬、16分割:Cool Winter/Cool Summer
骨格:ウェーブ
顔タイプ:ソフトエレガント
PD(マチュアリズム):グレース/クール
パリ流:Mクリエイティブ、Sクラシック、Aセクシー

イメコンは「似合う」を診断するものだ。それは見た目の美しさを追求することとニアリーイコールであり、ルッキズムの一つだと言えるだろう。ただ私は、これがイコールではなく、「ニアリー」イコールであることを強調したい。
イメコンでは、必ず何れかのタイプに診断され、そのタイプに応じた「似合い方」を教えてもらえる。診断結果が自分の好みのテイストとは異なることはあるかもしれない。しかしながら、「何も似合わない」ということは必ずない。必ず似合うものがある。それを教えてくれるのがイメコンである。
私にも似合うものがある。これは、見た目に対する自己肯定感が皆無であった私にとっては衝撃だった。イメコンは「似合う」ものを教えてくれる場所であると頭では分かっていたものの、自分に自信がなさすぎて、診断士さんに【貴方はどのタイプにも分類できません。不細工すぎて何も似合わないから。】と言われるのではないかとさえ思っていた。そんな私にも、診断士さんは似合う色やアイテムを理論を用いて教えてくれた。それは私の中で革命的であった。

2.イメコンが解いた私の「呪い」

イメコンで分かるのは「似合う」ものであると先ほど述べた。しかし、これは「似合わない」ものがあることも意味する。
前述した私のスペックでは、黄味のある色が似合わない。あたたかなブラウンやイエローが似合わないのだ。また、オーバーサイズの服は苦手だし、ポップなデザインや甘めの可愛らしいデザインは苦手だ。
では、私が似合うものは何か。黒やネイビーなどのハッキリとした色が似合う。青みのある色が似合う。フワッとした素材やハイウェストの服が似合うし、大人っぽいクールなデザインが得意だ。
さて、こうして診断でわかった自分の「似合う」を並べてみると、私は私が自分を好きになれなかった理由がわかる気がした。
私がずっとなりたかったのは、漫画「ハチミツとクローバー」にでてくる山田あゆみちゃんや花本はぐみちゃんのような子達だ。彼女らはお花が、リボンが、フリルが似合うような「可愛らしい」人だった。(今回はあくまでビジュアルのみを語っている)
しかし、私には花もリボンもフリルも似合わない。似合わないから私は「可愛い」女の子にはなれないのだ、ずっとそう思って生きてきた。
そんなとき出会ったイメコンは光だった。花やリボンやフリルだけが価値ではない。貴方には貴方の良いところがある、そう私を肯定してくれたのがイメコンだった。
かつての私の場合、狭い視野で「私には何も似合わない」と思い込んでいたから「装う」ことが苦しくてしかたなかった。できるだけ目立たないように、浮かないように、周りに不快感を与えないように。それだけを考えて服装やメイクを選んでいたように思う。
自分の、パーソナルな「似合う」が分かってからは、「装う」ことが楽しくなった。だから私にとってのイメコンは、自己肯定感を高め、自分に向けられていた「不細工だから価値がない」という呪いを解くものだったのだと思う。

3.「似合わない」を否定しない

さて、ここまで私の個人的な経験をもとにイメコンを褒め称えてきたが、万物には勿論マイナスの面もある。イメコンにおけるそれは、イメコンを「外した」時だ。
インターネットでは、イメコン知識をベースに、服やメイクが「似合っているかどうか」のジャッジが為される。モデルやアイドル、俳優の方に対し「○○ちゃんPC(パーソナルカラー)ガン無視のメイクされてて完全に良いところ消されてる🥺」など評しているアカウントを何度か見かけたことがある。「似合う」の基準であるイメコンの結果を外しているのを見た時、それに対して無邪気に「似合わない」と評してしまうのだ。それは他人に対しては勿論、自分に対しても向けられる。
イメコンに囚われすぎて、人の見た目を「似合う」⇔「似合わない」でのみ判断するようになってしまうのだ。
しかし、人が身につけるものを選択する基準は「似合うから」だけではない。そのものが好きだから、近くの店で買えたから、貰い物だから、などその理由は多様である。

私の友人に、ロリィタ服を愛し着用している者がいる。その友人は「イメコンに興味がある」とは言いつつ、こうも言っていた。「もし仮にロリィタが似合わないって結果が出ても私はロリィタを着続けるだろうな。」と。そう、友人は「似合うから」ではなく「好きだから」という理由でロリィタを着ている。そこにイメコンに囚われた人間がやれPC的には〜、骨格的には〜など口を挟む余地はない。
私はイメコン診断士ではないので、イメコン的な友人の「似合う」「似合わない」は分からない。しかし、友人がロリィタ服を「似合わない」ことはまったくもってないと思う。それは友人自身が、自分の「似合う」をイメコンを用いずとも研究し続けているからだろう。しかしそれ以上に、自分が好きな服を自信を持って着ているから、という点も大きいと思うのだ。
もちろん、多くの診断士さんは苦手をいかに取り入れるかも教えてくれる。苦手な色は顔周りから離してみる、などだ。そのため、「似合わない」と判定されても悲観することはない。「似合わない」を「似合う」に変えるためにもイメコンはある。
極論を言うと、私がイメコン的に「似合わない」とされる黄味がかった色やフリルやリボンも、着ている私が自信を持っていれば、それはそれで一つの世界観を形成するだろう。
服やメイクを殺すのは、着ている自分がそれに対して自信をもてないことだと考える。イメコンは、外的な理論によりそれが「似合う」という自信を与えてくれるものだと今の私は考えている。

4.今の私の結論-あくまで個人的であるということ

イメコンは、万人を「似合う」から取りこぼさない。そこに意味と価値があるのだと私は思う。だからこそ、この社会に蔓延するルッキズムによって美醜による上下を植え付けられた「私」を救ってくれたのだ。私は、イメコンによってありのままの自分を愛することを知った。あゆやはぐちゃんにはなれなくても、私には私に似合う「美しさ」があることを知った。ある種の「ボディ・ポジティブ」である。そこを否定したくはないのだ。
しかし、これはあくまで「私」の話である。「似合う」があることを知っても、美醜の呪いから救われない人だっているだろう。「似合う」が自分の「好き」と一致せず苦しむ人もいるだろう。私の経験を、万人に当て嵌めることはできない。

イメコンはルッキズムとニアリーイコールだと序盤で述べた。実際、イメコンは使い方によっては、それと合致する「似合う」のみが美しさであると捉え、人をジャッジする物差しになりかねない。つまり、ルッキズムを助長することに繋がりかねない。

結局、イメコンは完全に「パーソナル」なものであり、そうあるべきなのだと、私は思う。イメコンは自分自身を知るためのものであり、それは人をジャッジするためのものではない。
イメコンはたしかに私を救ったが、だからといって万人に対しおすすめできるようなものでもない。他人に自分を「診断」されること自体が苦痛だという人も多いであろう。

しかし私は、私が私を愛するために、今後もイメコンを活用していこうと思う。価値観が目まぐるしく変わるこの令和という時代において、「私」が私らしくあるための個人的な選択の一つ。それがイメコンなのである。

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