壊せ理不尽、超えたい理不尽。

※注意※
これから書く文章は、創作ネタの一つとして頭の中にある思考を整理するために手探りで書いたものです。小説の体をなそうとはしてません。表記ゆれとか誤字脱字があったり、前後の文脈がおかしかったりしてますが、あくまで、後々出る作品を作る過程で生まれたメモ書き程度にとらえていただけますと幸いです。


  • スケール:C#m

  • テンポ:てきばっかり.netのようなアップテンポ

  • 雰囲気:多分暗くなりそう。でもてきばっかり.netよりは明るめにしたい


「この世界には慣れましたか。みんなから投げられた「やめとけ」を振り払ってまで飛び込んだ世界。きっと、あなたにとってとびっきり楽しい世界でしょう」

その問いかけ、とても怖い。怯えて夜も眠れない。必死になってこの問いかけの答えを探す。今まで考えもしなかった。夢を追いかけるのに夢中……というより、必死だったからだ。。。

あとは、人間らしい生臭さかな。戦い終わった後の人間たちが口々に、内に秘めた思いを吐露するとき、今までその空間を覆っていた心弾むような、愉快・痛快な空気から、一気に生臭くなる。鼻を際限なく指し続けてくるような、今すぐにでも鼻を切り取って捨ててしまいたいと思ってしまうような、刺激臭。

その姿は、一般的に醜いものとされているとのこと。負け惜しみってやつ。そういうのはこぼさずに自分の中で処理するのが、あるべき姿だそうだ。ひとまずそれを信じて戦い続けた。たしかに、愚痴をこぼしてばっかりでは何も変われないというのは理解しているつもりだった。

戦い続けて、戦い続けて、戦い続けて、その考えが崩れた。そりゃ、吐き出したい気持ち、理解できるわ。いつまで経っても景色が変わらないんだから。だからこそ、より一層見ていられなくなった。まるで、自分の内側が晒されてるみたいで。こうやって、腐っていくんだな。

[上記のgdgdを高速詠唱みたいな感じに構築したい]
[ここからゆったり歌詞にしたい]

「ああ、理不尽」

目の前に壁が現れた。首が痛くなるような高さとは裏腹に、極めて軽率にだ。そうだね、冒険に壁はつきもの。それを乗り越えてこそ冒険のやりがいがあるというもの。達成感というものが、人間の成長につながるとかそういう話でしょ?

でも、この壁は別物だ。わざわざ自分でこしらえただけ。ろくに探究せずに、言語化できないこの状況をたった一言で片付けた結果だ。滑稽だ。セルフハードモードってやつか、これが。

冒険に壁はつきものなのはそうだけど、だからといって壁が必ず必要だとも思わない。いや、たしかに平坦な道をたどってゴールに辿り着いたとして、果たしてそれで自分の心が満たされるかという問題もある。多少の高低差をつけてアクセントを付けることで、代わり映えしない景色に飽きることもなくなるのかもしれない。

だからといって、エベレストとマリアナ海溝の往復はさすがに骨が折れる。そりゃもう、牛乳を毎日飲んだところで補えるものではない。そもそも自分の実力に見合ってないのだ。なぜ、わざわざ自分でエベレストやマリアナ海溝を用意してしまったのか。実に愚かだ。口に出すのは極めて簡単だが、一度口にした言葉は地面に吐き捨てたガムのように、簡単にとれそうにない。ちょっと味が薄くなっても、ギリギリまで咀嚼して味を感じること。難問に遭遇しても即座に捨て問にせず、今持ちうる武器をすべて使って、ギリギリまで相手をする。要は、ガチの理不尽を前にして臆せずに時間をかけて向き合う持久力が大事なのではないだろうか。

さて、以上の話から。理不尽には主に2種類存在するとした。「ガチの理不尽」と「セルフ理不尽」だ。「ガチの理不尽」とは、平たく言えば「ツキが回ってこない限り、越えられそうにない壁」だ。生まれ持った才能や日々の努力によって得られたスキルといった要素だけでは、景色を変えられないということである。田舎の車窓的な。

この世界にいれば、多数の人間が「ガチの理不尽」にぶち当たっているだろう。一見すると、人間同士が仲良く手をつないでる。確かに、人間同士の友好的なコミュニケーションは、この世界を生きるうえで大事な要素だ。しかし、「人気」がこの世界を生きる人間のライフラインであり、人間の数が有限である以上、必ず取り合いが発生する。取り合いという競争だ。競争というからには、順位が発生する。順位という上下関係がどうしても生じる。前にも聞いたな。「優勝はほんの一握り」って。

運動会のかけっこは、ほぼ走者の実力が結果につながる競争だ。脚力・持久力・怪我の有無・健康状態など、人間本来の力が優れていれば上位にいける。望ましい結果にならなくても、脚力・持久力の向上のための走り込みや、怪我をしないための気遣いや健康管理といったように、次回の競争で勝つための方法が明確だ。

一方、この世界ではちょっと事情が異なる。かもしれない。確かに、理論とかセンスとかプロモーションとか、自身が打ち込める方法はあるだろうけど、この世界で言う「勝ち」は、いかに多くの人の目に留まってもらい魅了できるかどうか。十人十色って言葉があるように、人間一人一人がほかとは違う好みとか価値観がある。多数の人間のストライクゾーンとなる最大公約数を見つけるのはそう容易なことではない。

いや、魅了させたい人間一人一人に聞き取り調査を行い、どんな好みや価値観が理解すれば、当然射程を合わせられるだろう。現実的じゃないけど。でも、好みや価値観って時間が経てば変わるとのこと。「流行」って言葉が存在するのは、時間が立つことで人間の関心事が移りゆくからだ。流行を気にするということ、これは重要な行為である。世間が今一番関心しているものを把握して、その関心事に合致するような一撃を叩き込む。多くの反応がもらえて、多くの人に自分を知ってもらえる。もしこの世界で勝ちにいきたいなら、間違いなく実践すべきだ。

ただ、ここで一つ問題が。世の中が求めているものは、果たして自分が作りたいものなのだろうか。そもそもこの世界に飛び込んだのは、作りたいものがあったからなのではないだろうか。世の中に求められているものを作ったとして、それで心は満たされるのだろうか。

もちろん、下らない言い訳かもしれない。余計なプライドなのかもしれない。いや、実際そうなんだろうなあ。だって、有名になりたいというのも本当に思っていることだから。そうなれば、巷にある有名になる方法を実践すれば、少なくとも流行りを取り入れないやり方よりは近道ではあるのだろう。でも、やっぱり自分が面白いと思ったもので世間を沸かしたいじゃない? そのほうが絶対に満足する。。。。流行は、乗るよりお越したい……

結局のところ、流行に乗る方法を実践したとて成果が実る保証は無い。まずそこでツキを待たなきゃならない。そのうえで、自分の作りたいもので世間をあっと驚かせたいのであれば、さらに特大のツキを待たなきゃならない。「ガチ理不尽」だけは、辛抱強く登り続けて越えていかなければならない。そして「ガチ理不尽」を前に思考を放棄して「セルフ理不尽」を作ってはならない。その理不尽は壊せ。潰せ。地面に埋めてしまえ。あるいは、その盛り上がりそうなセルフ「理不尽」を推進力に変えて「ガチ理不尽」を越えてしまえ。

そういえば「人事を尽くして天命を待つ」って言葉があるみたいですね。この世界の真理かもね。。。



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