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ドュッセルドルフ経由 - ミュンヘン

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ドュッセルドルフの絵画館では入館後間もなく、またルーベンスか・・・と感じてしまいました。ミュンヘンのアルテ・ピナコテークのルーベンス・コレクションは有名ですが、ドュッセルドルフにも大作が!           もともと大きな工房に多くの弟子を抱えて多作で知られたルーベンスですから、あちらこちらに作品があっても不思議ではないのですが・・・

たぶん私も子供の時に『フランダースの犬』は観ていたと思うのですが、しんみりと感情に訴えるお話に弱い私は、学生時代にアントワープ聖母大聖堂で本物を見ても、割と簡単にスルーしてしまいました。子供の頃にお話が好きでなかったのと、大人になっても本物を鑑賞する技術がなかったのは別問題ですが、今でもルーベンスの作品は、なんというのでしょう、ピンクの肌色、ふくよかというレベル以上の肉体表現、観ていてすぐおなかがいっぱいになってしまう、生クリームこてこてのケーキを食べすぎたような感じがするのです。

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一応、ピーテル・パウル ルーベンス(1577 - 1640)について簡単におさらいをしておきます。
ルーベンスの父ヤンは弁護士でありカルバン教徒でした。当時のアントワープは、ネーデルラントのうちスペイン系ハプスブルグ家が統治する南ネーデルラントのカトリックの都市でした。両親は、カール5世、フェリペ2世に続くプロテスタント迫害を逃れてケルンに逃げてきていました。ルーベンスは1577年、ジーゲンという町で生まれましたが、幼少期をケルンで過ごし、1587年の父の死後は、母と兄弟と、両親の出身地であるアントワープに戻り暮らします。ルーベンスはカトリック教徒として、ラテン語と古典文学の教育を受けました。

画家になる決心をし、複数のマイスターの元で長期にわたる修行を終えます。マイスターの一人が、宮廷とコネクションがありイタリアにも通じていたオット・ファン・フェーンで、ペーター・ブリューゲル(1525/30 - 1569)の息子ヤン・ブリューゲル(1568 - 1625)も同じアトリエにいました。

1600年イタリアへ向かいます。
ベネチアを皮切りに、マントヴァではマントヴァ公の宮廷画家になり、ローマ、ジェノバ、フィレンツェを訪れます。ローマには時を同じくしてカラヴァッジオも滞在していました。1603年には、マントヴァ公からスペインのフィリップ3世への献上品を運ぶ旅に同行しました。
イタリア各都市、スペイン宮廷でその国の権力者と親しい関係を結び、外交官としての役目も果たしました。そして各国の宮廷貴族が収集していた古典古代の彫刻、ルネッサンス画家の作品を思う存分鑑賞・研究できました。

母危篤の知らせを受け、1609年アントワープに戻ります。ちょうど80年戦争(1568 - 1648)の休戦協定が結ばれた年でした。町の有力者の娘イザベラ・ブラントと結婚しアントワープに大きなアトリエを構え、精力的に制作を続けました。間もなくフェリペ2世の甥にあたるネーデルラント総督のアルベルト公とイザベル妃の宮廷画家に迎えられます。この時期にアントワープの大祭壇画、『キリスト昇架』(1610)、『キリスト字架』(1614)を作成し、フランドル・バロック絵画の礎を築きました。1621年に休戦が終わり独立戦争が再開すると、イザベル妃をはじめ、スペイン・ハプスブルグ家の君主はルーベンスを和平交渉の外交官として、イギリス王宮やネーデルラント北部へ派遣します。1628年にマドリッドに長期滞在した際にはディエゴ・ベラスケスと親交を深めました。

晩年も制作依頼は多く、精力的に制作を続けました。イザベラと死別していたルーベンスは1630年53歳の時に、16歳のエレーヌ・フールマンと再婚します。エレーヌはふくよかな裸体でヴィーナスのモデルとしてしばしば作品に登場することになります。

彼の死後(1640)、1648年ネーデルラント北部7州はネーデルラント連邦共和国としてスペインからの独立を承認されました。ルーベンスの人生は、ネーデルラント北部諸州によるスペイン支配に対する反乱の時代と重なりますが、また、アルベルト公とイザベル妃夫妻の芸術支援の元でフランドルにバロック文化が花咲いた時代でもあるのです。反宗教改革を打ち出すカトリック教会が広めた宗教感情あふれるバロック絵画をイタリアの本場で直に接し吸収したルーベンスがフランドルに持ち込んで開花させたのですね。

ところで、ドュッセルドルフの作品『聖母マリア被昇天』(1616 - 1618)、と『ヴィーナスとアドニス』(1610)の2点 ですが、大作ゆえにずっとドュッセルドルフに残っていた、といってもいいでしょう。

もともとドュッセルドルフ絵画館のコレクションは1680年頃から1716年まで収集された作品が基になっています。

ドュッセルドルフを首都としていたユーリッヒ - ベルク公国を1614年、ヴィッテルスバッハ分家 プファルツ - ノイブルグ家のヴォルフガング ヴィルヘルムが継承し、その孫、ヨハン ヴィルヘルム(1658 - 1716)の治世(1690 - 1716)にドュッセルドルフは芸術都市へと大きく発展します。2人目の妃アンナ・マリーア・ルイーズ デ=メディチと共にパトロンとして芸術活動をサポートしました。

オランダ出身の肖像画家ヤン・フランス・ファン・ドゥーヴァンを宮廷画家にまねき、彼を通じてコレクションの収集が行われ、彼らのコレクションはイタリア、フランドル、オランダのルネッサンス、バロック絵画に及びました。1709年居城内に専用の絵画館が作られ、ヨーロッパ指折りのコレクションと謳われました。

ところが、ドュッセルドルフはこのコレクションの大半を失うことになります。まず、ヨハン ウィルヘルムが亡くなった翌年1717年、アンナ・マリーア・ルイーズは絵画コレクションの自分の相続分をもって実家のあるフィレンツェに戻ります。

次の痛手は、フランス革命の混乱でした。迫りくるフランス革命軍から守るため、コレクションは一時マンハイムに移されました。その後、マンハイムからさほど遠くないプファルツ地方のキルヒハイムボーランデンに移されましたが、ライン川左側のこの一帯はフランス領になりました。フランス革命の混乱を経て1816年のバイエルン王国とオーストリア帝国との間で行われた領土交換によって、この地域はバイエルン王国の帰属となりました。そしてドュッセルドルフの絵画コレクションの多くがミュンヘンに運ばれていったのです。その時に運ばれたコレクションはのちにアルテ・ピナコテークのコレクションの核となります。

ではここで、1711年にブリュッセルの教会の祭壇画だったものをヨハン ウィルヘルムが購入した『聖母マリア被昇天』を見てみましょう。

聖母マリアは死後3日後に天に召されます。キリストが復活後自ら天に昇ったのに対し、マリアの場合、❛被昇天❜、と書かれる通り、自分では昇天しません。雲に乗ったり、天使たちに担がれて天に昇って行きます。

画面上半分は聖母マリアと天使たち、下半分は聖母マリアの墓の周りでこの光景を驚きと畏怖の念で見守っている人たちが描かれています。

構図を見てみましょう。左上の3人組の天使、聖母の赤いドレスの裾、そして緑のマントの男の伸ばした右手、黄色いマントに覆われた背中が対角線を結んでいます。そして、右上の天使群から、伸ばした手の指先を通って、聖母マリアが横たわっていたであろう白い布とそれを持つ男のブルーのマントがもう一方の対角線を形成しています。ちょうど交わる点に男の伸ばした指先が来ていますね。聖母マリアはこの2本の対角線でできる、逆三角形の中に納まっています。聖母マリアの胸にあてた左手から伸ばした右手へ、そしてやや蹴り上げたような左足によって、視線はブルーのマントの男へと移り、一歩踏み出した足によって右に誘導され、緑マントの男の背、伸ばした右手を伝って聖母マリアへ帰るもよし、もう少し進んで右端の男が広げた赤いマントを伝い上って帰るもよし、なかなか良い構図ですね。こうして視線が誘導されて描く楕円のなかに聖母の墓があり、遺体を包んでいた布は聖母の純潔を象徴すように、ひときわ白く輝いています。その純白の布のそばに、手のひらに薔薇の花を持っている女性がいます。静かな落ち着いた表情で昇天する聖母を見上げていますが、これは聖母マリアの墓が開かれたとき、そこには遺体の代わりに芳香を放つ薔薇の花があったという伝説によるものです。

聖母マリア被昇天は、カトリック教会が宗教改革に対抗するための絵画プログラムにまさにうってつけのテーマでした。ルーベンスはこのテーマを好んで何作も制作しています。

そして『ヴィーナスとアドニス』。美少年アドニスと美と愛の女神ヴィーナスの今生の別れのシーンで、絵画だけでなく文学でも好まれたテーマです。ルーベンスはこの作品をイタリア旅行から戻って間もなく制作しており、他にティツィアーノの『ヴィーナスとアドニス』を別の角度から描いたようなバージョンもあります。

アドニスは美少年。美と愛の女神もキューピットの放った矢に当たり、アドニスにぞっこんです。アドニスも初めはまんざらではなかったようです。ヴィーナスは、アドニスが狩りで猪に襲われて死ぬことを知っています。ですから狩りに出かけようとするアドニスを必死にとどまらせようとしますが、アドニスは狩りへ行きたくてしょうがないのです。

ヴィーナスは片足を蹴りあげもう片方で踏ん張り、体全体をアドニスに預けて、彼を引き留めようとしていますが、アドニスの右手はヴィーナスの手を振りほどこうとしています。画面を対角線状にアドニスの若い隆々とした裸体が伸びています。アドニスの顔はまだヴィーナスの方を向いていますが、左手にしっかと持った槍は垂直に立てられ、体はよじられて今すぐにでもヴィーナスのもとから離れて立ち去るであろうと見て取れます。アドニスの裸体にふんわりと纏いつく赤いマントは、これからアドニスが血まみれになって死ぬ様を予兆しているようです。アドニスのそばに立つキューピットは、狩猟犬の綱を握ったまま、幾分しらけた表情でこの光景を見ています。アドニスのヴィーナスへの熱はもう冷め切っているという証拠です。猟犬ももうそっぽを向いてしまっていますしね。

こうしてゆっくり観てみると、ルーベンスも悪くないですね!

ちなみに、アルテ・ピナコテーク所有のルーベンス・コレクションは、数点をミュンヘンに残して、プファルツ - ノイブルグ家の本籍地ノイブルク アンデア ドナウの居城に集められています。2005年にフランダース・ネーデルラント絵画に重点を置いた展示室がオープンし、ルーベンス作品と共にヤン・ブリューゲル(父)やアンソニー・ヴァン・ダイクの作品が鑑賞できます。