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せん妄になってしまった親に会うのが怖い

11月末に、また肺がん最々発というか、もう治療手立てはないよ、肺が一部潰れてて呼吸ができないよ、とガツンと主治医に告知された母。

ADLがかなり低下してて、毎月おびえるように這うようにして(車椅子生活だけど)、通院してるなかの、すごいパンチをくらって。

かなり大きなショックの様子だった。

もう心身ともに虚弱になってる母には、その事実を受け止めるだけの体力も精神力もなかったと思う。


翌日に、独語や会話の噛み合わなさがはじまり。そして、左足の痙攣。訪問看護師さんから訪問医へ緊急連絡。そして、大学病院への緊急搬送。

脳に転移もしてるがんもあいまって、イーケプラ(脳のてんかんを抑える薬)の量を3倍量にふやしててんかん治療(発作を止める)。

入院数日間は、薬の影響でぼんやりとしていたが、意識がすこしずつ戻ると、今度は「せん妄」が。

せん妄の原因は複数あるので、一つ一つ仮説をたてながら検査をし、減薬したり、血中の各値を改善させてみたりしたが、改善はせず。3週間が経過した。

脳のあらたながんが、記憶を司る箇所へピンポイントででたのか、と脳のMRIをとりたくとも、せん妄状態の母は、もはやMRIができない。理由は、「いま、なぜ、わたし(母)がこの大きな機械の中(MRI)にはいって寝てなければ行けないのか、じっとしなければいけないのか」がわからなくなっている。

MRIをしてる間はからだを動かしてはいけない。でも母にはそれがもうわからない。ので、検査は中止。今後も、MRI検査や静止を要する検査はできないだろう。

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せん妄状態になった母が、すこしでも「母らしさ」を取り戻してほしかった。なんとかこの入院中に改善してほしかった。でも、それはないと医師から今日連絡があった。

がんの治療はなにもできない。あっても、もはや対処療法にちかいもののみ。脳に転移をしたので、全脳照射をしてる。全脳照射は、人工的に脳の細胞すべてを傷をつけることになるので(その時に発生してるがんをなくすことはできるが)、「確実に」認知症になることは理解していた。

21年2月に全脳照射をして、3月になんとか退院。そして、10ヶ月在宅療養をしきた。徐々に認知機能が低下してる状態も見てきた。できることができなくなること(ADLの低下)によるストレスをぶちまけたく、一時期は不穏状態にも。ただ、それでも、脳に腫瘍ができてると治療ができるという前向きな気持ちになって、気持ちを持ち直したり、今年の夏から冒頭の11月の診察日までは、本当に本当に安定して、穏やかに過ごしていた母。

こんな穏やかな母は、どれほどの期間が続くのかわからないけど、あくまでも「母らしい性格」を主軸にもちながら(=人格は大きく変わることなく・認知はゆるやかに進みながらも)、それで息子と娘を思い、彼女にとって現在できる限りの最大限の安定した生活」が送れるのだと信じてた。期待していた。

あとは、肺のがんがどのように進行するのか、からだに転移するのか、血中のバランスがくずれて臓器の機能が停止するのか、栄養が取れなくなり、24時間点滴や輸血や疼痛管理を在宅でどこまでするのか、とぼんやり考えいた。などをしていって枯れるように死んでいく母を看取るのだと思ってた。

でも、そこは違った。虚弱な人に、何が起きるかわからない。なんのバランスがくずれて、どう人体への影響があるのか、わからない。そういう非常にもろい心身状況であることを、突きつけられた。

そして、「せん妄」となり、母は現在の自分がなぜ病院にいるのか、娘や息子の記憶はあるものの、看護師や医師との会話の辻褄は合わず、私との会話も、一方的(母から)。私からの質問(例:おかあさん、体調どう?)のレベルすら、理解できず明後日の方向の話をしている母。

「曖昧な喪失」。母は生きてるのに、母の心や「私の知ってる母」はいなくなってしまった。死んでしまったように思える。

いま、病院(面会禁止)にいる。会えない。母に会えない。状況がわからない。たった1週間前までは、なんとか電話にでてくれた。でも、もう電話すらも操作がわからないのか、受け取ってもくれない。返信もくれない。LINEもできない。

環境がかわることで、虚弱になってる高齢者は急激にせん妄になることがある。そして、環境が落ち着いて安定した環境に戻る(=家や家族と触れる時間が多くなる)と安定する、とも言われてる。

私は母にあって、母の心の安定を取り戻したい。せん妄状態が少しでも安定し、少しの間だけでも「私のしる母に会いたい」と思う。私の知ってる母が愛おしい。会いたい。でも、本当にいるの?

次にあうときは、退院する時にあって顔を見れると思う。およそそれは来週。

その時、嬉しい10%、怖い90%。「私の知らない人(母)」が、何を話何を考えてるの変わらず、一方的に解釈して話をする知らないおばさんが目に前にいるのではいだろうか。それは私の母なのだろうか。しらない人を「母」とよび、そばにいて、会話をする。

恐怖に近い。怖い。そんな母に会いたくない。でも会いたい。おりまざる気持ち。

母がせん妄(=急激に人格が変わるようなこと)になるなんて、想像してなかった。ゆるやかに認知がすすむ、ことは受け入れてたし、実際そうだった。不穏のときもあった。でも、急激に「私の知らない母の姿になってる人」に対峙しながら、母を看取ることになるとは、おもわなかった。


まだ母は死んでない。生きてる。そして、再来週から、ついに有料介護施設に入居する。母の選択肢はない。家族も限界。「せん妄」がある状態での在宅料は無理だと医師から宣言されてる。わたしたちも、この2年、母の病気に奔走し、時間も心もお金も彼女に注いできた。そして、大きな大きなストレスでもあるが、母を家にかえして、すごさせてあげたいの一心で、いまのいままでやってきた。

でも、もう母は家に帰ることはできなくなった、という判断を。今日くだした。

親のせん妄で、大きな動揺をもち。

その親を、家ではなく施設に入れる決断をして。

これは、ものすごいストレスと底なしの寂しさを感じる。寝ても覚めても、母のことばかり。母に会いたい。甘えたい。抱きしめたい。私の母でいてほしい。でも、もう本当に母なのだろうか。

心療内科でもらってる、安定剤を毎日のみ、睡眠薬は量を増やし。それでも、寝るのが浅くなり、途中覚醒する日も増えてきた。つまり、私は相当のストレスを感じてる。

まだいうのですか。「介護をして一人前」や「介護美談」を。こんな辛いことを家族(伴侶や子供)に丸投げすることも、決断させることも、孤独に奮闘させることを、なぜ家族にやらせるのですか。

誰にも届かない、誰にいいたいのかわからない。でも、どこかで深い悲しみと憤懣やるかたない気持ちが湧き上がる。そして、諦める。

自分が母になにもできない、無気力さ。

そんな状態で、うつうつしくなって無気力な日々がつづくこの2年。

明日死ぬのか、来週死ぬのか、施設入ったら環境かわって安定するの?むしろ不安になってストレスで死ぬの?食べれてるの?何を食べてるの?病院はいつ退院できるの?看護師さんらは、せん妄になってる母に対して無下にあつかってないか?おざなりに対応していないか?

寝ても覚めても、こんな不安やストレスや疑問ばかりの日々。

「花が枯れるように、死ぬ」

なんて美しそうな表現をした訪問看護師さんのリーダさんがお話をしてくださった。

花が枯れるように、死ぬ。は、認知障害・痛み・苦しみ・暴言・急遽な各種症状の表出、などをともない「花が枯れるように、死ぬ」なのでしょうか。

じっとして、栄養分(水)がなくなって、ゆっくり傾眠してなくなる。それまでのプロセスは、人それぞれだろうけども、まだまだそのプロセス上にいる私にとっては、ただただひたすら心の奥底で寂しさと、ストレスを多大に抱えてる。

いまは私は母の介護、病院、施設の各所への調整等に翻弄されながら、でもギリギリのところで正気を保ちながら、今日は生きてきた。いや、もう、本当にぎりぎり。


でも、しってる。そう遠くない将来に、「曖昧な喪失」じゃなくて、「確実な死とともに明確な喪失」の日が来ることを。

その日がくるまでは、私なりに全力で母と向き合おう。あと1週間なのか。2週間なのか。1ヶ月なのか。2ヶ月なのか。3ヶ月なのか。わからない。

流れるように、自分の感情の赴くままに、母の最期は、母と一緒に過ごそう。きっと、それが私がやりたいこと。